気高い恋
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気高い恋
気高い恋
花は様々な場所に咲く。水辺に咲く花もあれば平原に咲く花もある。そして中には崖や岩山の上に咲く花もある。そしてそうした花程美しいものである。
エーデルワイスという花がある。これは欧州の岩山に咲く美しい花である。名の知られた花であるがこの花は恋人達にとりわけ愛された花でもある。
それは何故か。白く美しい花だからである。純潔と感動を表すこの花は多くの者に愛されてきた。そして贈り物としても尊ばれてきたのである。
古い話だ。ドイツの南にバイエルンという地域がある。音楽と城をこよなく愛した一人の王で知られる場所だがここにエーデルワイスにまつわる一つの話が残っている。
バイエルンは豊かな場所として有名であった。ビールやソーセージで有名である。農業が盛んであり多くの者がそれにたずさわっていた。ここに出るエヴァという娘もそうであった。
エヴァは山の牧場の娘であった。あまり大きくはない牧場だがつつましやかに、そして幸せに暮らしていた。彼にはペーターという樵の恋人がいた。彼とは結婚まで約束した仲であった。二人はもうすぐ結婚しようと話をしていた。だがここでエヴァの心が動いた。
彼女は狩人に恋をしはじめたのであった。この狩人は金色の髪に青い目をした背の高い凛々しい若者であった。エヴァは髪は赤く、目は緑であった。顔にはそばかすが残っておりあかぬけない感じであった。ペーターもまた野暮ったい外見であり茶色の髪はボサボサで灰色の目はおっとりとした光で鼻も低い。二人共容姿は平凡であった。
だがその狩人は違っていた。颯爽としていて狩りの腕もよかった。出て行けば必ず獲物をたっぷりと捕らえてくる。エヴァはそんな彼を見て心が揺らぐようになったのである。
だがペーターはそれには気付かない。ただエヴァが最近元気がないと思っていただけであった。心配した彼はエヴァに訳を聞いてみた。
「どうしてそんなに元気がないんだい?」
「それは」
エヴァはそれを聞いて口ごもった。本当の理由なぞ言える筈もなかった。
「ちょっとね」
「ちょっとじゃわからないよ」
ペーターはそう答えて首を傾げさせた。
「それでわかったら神様も困らないよ」
「うん」
だがエヴァは相変わらず元気のないままであった。
「何でもないの」
「何でもないとは思えないよ」
ペーターはそれに対してそう言った。
「何か最近ふさぎこんでいるし。どうしたんだよ」
「ちょっとね」
エヴァはまたそう言った。
「だから何でもないのよ。気にしないで」
「気にしないでいられるもんか」
ペーターはそれに対してそう返した。
「えっ!?」
「エヴァ、君は僕と結婚するんだよね」
「ええ」
エヴァはとりあえず頷いた。
「じゃあ僕が君のことを心配しなくてどうするんだよ。僕は君の夫となるんだぜ」
「それはそうだけれど」
「僕にできることなら何でも言ってくれよ、相談に乗るから」
「そんなのじゃないの」
だがエヴァはそう言って彼から目を逸らそうとする。
「だから。今は一人にして」
「今は?」
「ええ」
エヴァはまた頷いた。
「一人でいたいの。いいでしょ」
「君がそう望むのなら」
彼はそれ以上突っ込もうとはしなかった。
「僕は何も言わないよ。けれどきっと君を元気にしてみせるよ。それでいいね」
「ええ」
ただそう言葉を返すだけだった。エヴァは結局本当のことを言わなかった。ペーターもまたそれ以上聞こうとはしなかった。だが彼は何としてもエヴァの心を明るくさせようと決意したのであった。
ペーターは考えた。エヴァを明るくさせるにはどうすればいいか。彼女の好きなものを贈ったらどうだろうかと思った。
「何がいいかな」
彼女は花が好きだった。特に白い花が。とりわけエーデルワイスが好きだった。ペーターはそのことを思い出したのであった。
「エーデルワイスか」
一言で言うのは容易い。だが容易なことではない。それは何故か。
エーデルワイスは岩山の上に咲いている。取るのは難しい。ペーターはお世辞にも器用な男ではない。斧を力任せに振ることしかできない不器用な男だ。そんな彼がエーデルワイスなぞ取れる筈もなかった。
だが彼は決めた。取る、と。そしてエーデルワイスをエヴァに贈るつもりであった。彼は一度決めたら何としてやり遂げる考えの男であったのだ。
彼はすぐに高い岩山に登った。木も草もない岩ばかりの山であった。その頂上にとりわけ美しいエーデルワイスが咲いていると聞いたからであった。
彼は岩を一つずつ越えていった。そして頂上に近付いていった。そして長い時間をかけて遂に頂上に辿り着いたのであった。
頂上はこれまでの岩山ではなく草木が生い茂っていた。そしてその中に一輪の花が咲いていた。
「これだ」
ペーターは遂に見つけた。エーデルワイスを。そしてその花を手にとった。そっと懐に入れた。
それから岩山を降りて行った。ゆっくりと、だが確実に。あと少しでふもとが見えてくるというところまで戻ることができた。
「もう少しだ、エヴァ」
彼はここで恋人の顔を脳裏に思い浮かべた。
「君にこの花を贈ることができるよ」
そう思うだけで胸が一杯になった。白い花が胸に宿っていた。彼はそれを贈る為に岩山を登り危険を冒したのであった。今それが報われようとしていた。
だが彼はここで気を緩めてしまった。足を滑らせてしまった。そしてそのまま落ちて行った。
「あっ」
彼は一言叫ぶとふもとへと落ちた。最後に重い物が落ちる音がした。
「ペーターが!?」
ペーターが岩山から落ちたという話はすぐにエヴァのところにも届いた。彼女はそれを聞いてすぐに顔を蒼白にさせた。
「それは本当なの!?」
「ええ」
彼女によく似た赤い髪の中年の女がそれに頷いた。エヴァの母である。
「何であの山に登ったのかはわからないけれど」
「そうなの・・・・・・」
彼女はそう答えながらふと気付いた。自分の為なのだと。
「まさか」
「エヴァ、どうしたんだい?」
「お母さん」
彼女は狼狽した顔で母に声をかけてきた。
「ペーターはどうなったの!?」
「とりあえず今のところは生きているよ」
「今のところは」
それを聞いてとりあえずは安心しながらも不安は完全には消えはしなかった。
「何かあるの!?」
「大怪我をしていてね」
母は沈んだ声でそう答えた。
「危ないんだよ。今御前のことを必死で呼んでいるそうだよ」
「私のことを」
「ああ。家のベッドでね。どうするんだい?」
「決まってるわ」
狼狽は消えていた。彼女の声は毅然としたものとなっていた。
「ペーターのところに行く。いいでしょ」
「ああ」
母はそれを認めた。
「行っておいで。そうした方がいい」
「ええ」
「けれどこれだけは言っておくよ」
母は娘に対し一言贈ることにした。
「何?」
「人間ってのはね、一人じゃ生きられないよ」
「一人じゃ」
「そうさ。誰かがいてはじめて生きることができるんだよ。自分を心から思ってくれる人がいてね。わかったかい?」
「・・・・・・・・・」
今は答えることができなかった。ただ聞いただけであった。ペーターのこと以外考えられなくなってしまっていたからで
あった。
「今はわからなくてもいいよ」
母はまたそう言った。
「今はね。後でわかればいいから」
「うん」
頷きはした。だがそれだけであった。
「けれどね」
だが母はここでまた言った。
「今御前がやらなければならないことはわかってるね」
「私がやらなければならないこと」
「そうさ。エヴァ」
娘の名を呼んだ。
「すぐにペーターのところへお行き、いいね」
「ええ」
エヴァはそれに頷いた。彼女も既にわかっていることだったからだ。
「あの子には御前が必要なんだよ、さあ」
「うん」
「そしてね」
母はさらに一言付け加えた。
「御前は誰と一緒になるべきか、わかってるね」
「ええ」
「ならいいよ。じゃあお行き」
こうしてエヴァはペーターの家に向かった。家に行くとペーターが床に伏していた。
「ペーター」
返事はない。死んだように眠っていた。エヴァの言葉にも応えようとはしない。不安になった彼女は隣にいる彼の両親に顔を向けた。見れば彼は父親によく似ていた。
「あの、叔父様叔母様」
エヴァにとって二人は幼い頃からよく知る顔であった。話し掛け易かった。
「ペーターは」
「やあエヴァ」
ペーターの父が彼女に顔を向けてきた。
「よく来てくれたね。どうも有り難う」
「はい」
彼女はそれに応えた。だが不安は消えてはいない。さらに声をかけた。
「それでペーターは」
「とりあえず磨り傷とかはないよ。骨も折れてはいない」
「そうですか」
それを聞いてとりあえずはほっとした。
「けれどね」
だが彼の父はここで声と顔を暗転させた。それを見たエヴァはまた不安になった。
「意識が戻らないんだ。頭を強く打ったらしくて」
「えっ」
「お医者様にお見せしたところ何処も異常はないっていうけれど。ただ目が覚めないんだ」
「そんな」
「どういうことかわからないんだ。お医者様も首を傾げておられた。これはどういうことだろうって」
「どうすればいいのですか?」
「それはわからない」
彼だけでなくその妻も首を傾げてしまっていた。
「私達にできることがあればいいのだけれど」
「そうですか」
「ただね、一つ気になることがあるんだ」
「気になること」
「ああ。これを見てくれ」
彼はここでベッドの毛布をめくりペーターの身体を見せた。見れば彼はその手に白い花を持っていた。それは一輪のエーデルワイスであった。
「エーデルワイス」
「どうしてもこれを手放そうとしないんだ」
彼はいぶかしがりながらそう述べた。
「わからない。これはどういうことなのか」
「そうなのですか」
「さっきまではあんたの名前を呼んでいたけれどね。何故かあんたが来るとぴたりと止んだ」
「私が来ると」
「そうなんだ。これはどういうことなんだろう」
彼はまだわからなかった。しかしエヴァにはわかっていた。彼女は言った。
「叔父様、叔母様」
「?何だい」
「どうかしたの?」
二人は彼女に顔を向けさせた。そしてエヴァを見る。
「私にはわかっています」
「わかっているのかい?」
ペーターの母は心配そうな顔でエヴァを見ていた。
「何でペーターが起きないのか」
「はい」
彼女は毅然とした声で答えた。
「ペーターはあの高い岩山に登ってこのエーデルワイスを取ったんですね」
「ああ」
「そうだよ。あんな危険な山をね。どういうわけだか知らないけれど」
「それは私の為なんです」
「あんたの」
「はい。このエーデルワイスは私への贈り物だったんです。今それがわかりました」
そう言ってゆっくりと前へ出た。そしてペーターのすぐ側に立った。
「ペーター」
それから彼の名を呼んだ。
「有り難うね。私の為に」
手をエーデルワイスに近付ける。
「その為にこんなことになって。けれどね」
花を手にした。
「有り難う。有り難く受け取らせてもらうわ」
「エヴァ」
彼の両親はそれを見て思わず彼女の名を呼んだ。その時だった。
「エヴァ?」
不意にペーターが彼女の名を呼んだ。そしてそれだけではなかった。
「そこにいるのかい?」
「ええ」
彼女はそれに答えた。すると奇跡が起こった。
「よかった」
何と目覚めたのだ。その瞼をゆっくりと開いたのだ。
「ペーター」
エヴァはそれを見て信じられないといった顔をした。
「起きたの!?助かったのね」
「助かった?何が?」
だが彼は自分がどういった状況にあったのかよくはわかってはいなかった。いささかとぼけた声を出した。
「僕が一体どうしたんだい?」
「何でもないの」
彼女は微笑んでそう答えた。
「けれどね」
「けれど?」
「この花」
手に持つエーデルワイスを彼に見せた。
「有り難うね。有り難く受け取らせてもらうわ」
「勿論だよ」
彼はそれを聞いて快く頷いた。
「その花は君の為に摘んできたんだ。是非受け取ってくれよ」
「わかったわ。それじゃ」
「そしてね」
彼はまた言った。
「何?」
何を言われるのかわかっていた。だがエヴァはそれでもあえて問うた。
「よかったらね」
「うん」
「僕と・・・・・・」
ペーターはここで言葉を一瞬詰まらせた。
「貴方と?」
「本当によかったらだけれど」
「ええ」
「結婚・・・・・・してくれないかな。何時までも一緒にいたいんだ」
「いいわよ」
断るつもりは最初からなかった。手に持っている花がそれを許さなかった。エヴァはにこりと笑ってそれに頷いた。それで決まりであった。
揺らぎかけた恋を結びなおしたのはエーデルワイスであった。だがそれを運んできたのは他ならぬペーターであった。気高い行為が一つの恋を成就させた。バイエルンに古くから伝わる話である。
気高い恋 完
2005・6・30
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