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乱世の確率事象改変

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黒のマガイモノ


 幾多もの皺が刻まれた手は、ゆるりと顎から垂れる白い髭を一撫で……もう片方の空いていた手は、瞼を閉じたままでぽりぽりと頭を掻く。
 眉毛も髪の毛も真っ白に色が抜け落ち、生まれてから重ねた年数を表す。
 そのご老体の目の前で、雛里は慎ましやかに膝を揃えて座り、真剣な眼差しを送り続けていた。
 後ろには軽装を纏った兵士が二人。黒に心が染まった彼の部隊である。

「どうしても必要……鳳雛様はそうおっしゃるが、わしは反対じゃ」

 顰めた眉が不快感を微細に示し、片目だけ開いて見つめられ、雛里は……きゅ、と拳を握った。

「お願いします」

 たった一言。
 雛里は説明の後に、頼み込むことしかしていない。否、まだしない。
 双眸に宿した光は知性と悲哀を含ませて。後ろの二人は……少しばかり震えていた。雛里の行おうとしているモノが、彼が大切にしてきたモノを穢すギリギリの行いであると理解している為に。

「この街の長老であるあなたに許して頂きたいんです。白馬の王に親しかった人は……もはやこの街の民しかいません。だからどうか、お願いします」

 また、ペコリとお辞儀を一つ。
 七乃との交渉の次の日、雛里が向かったのは街の長老でも一番発言力の高い老人の家であった。
 秋斗が出て行ってからは夜な夜な娘娘にて会合を開き、各区画の改善点等々を、草の根活動の如く繰り返してきた白蓮。
 そんな彼女を民と繋いで来た最たる人物がこの老人であり、他の区画、余所の街や近辺の村々の長老達との懸け橋にもなっている。そしてあの河北動乱で白蓮に手紙を送り、民の総意を伝えたも彼であり、ある意味で彼女を救い出した一人と言ってもいい。

「……わしはこの街で長いこと生きておる。白馬の王が初めてわしらに挨拶を行った時や、初めて外敵の防衛に赴いた時すら、記憶に新しい程にのう」

 懐かしむ視線を宙に彷徨わせ、思い出の中の彼女を頭に浮かべて、長老は懐古のため息を付いた。
 白蓮はこの街で生まれ育ったわけでは無い。伸し上がったのがこの街。言うなれば華琳にとっての陳留とほぼ同じ。
 幾度も防衛に赴きながらも、終わらない仕事に泣きごとを言いつつ街の改善に勤しんでいた……それを長老は、生きてきた年数で蓄えた知識で読み取っている。
 飛び切り豊かとは言えないが穏やかで温かい街になった。のんびりとお茶を楽しめるような場所が出来た。それもこれも、白蓮がこの街を初めの家としたからだ。
 自分の生涯を生きてきたこの場所で、時には孫娘を見るように長老は白蓮の成長を見てきたのだ。秋斗が来てから後は関わる事が増えたのだが、甘くて優しい彼女に苦笑してしまった数も、信頼と感謝を込めて楽しく笑った数も計りきれない。

「故に、わしは関靖様がどれだけ我らが王に尽くして来たかを知っておる」

 当然、後ろに侍って付いて回っていた少女の事も、長老は見てきた。
 張りつめた空気は嫌悪を含み、雛里に突き刺さる。

「夜天の願いが失われようとも、徐晃様が我らが王の為に戦っておられるのは分かっておるが……」

 目を瞑り、三人の友が交わした願いに想いを馳せた長老は、たっぷりと時間を置いて、

「何も死者を戦場に立たせずともよいでしょうに」

 雛里を睨みつけた。
 それは静かな怒気であった。心の内より湧き上がり、相手に冷たさを染み込ませるような。

「確かに、王に対する忠義を守らぬ大馬鹿者共は、待つだけしか出来ぬ不甲斐無さから徐晃様の元に馳せ参じるじゃろう。義は彼にあり、とな。わしらではもう止められん……あの歌が心にある限り」

 毎日誰かが歌うから、心に募る不満は吐き出す場所を求めてしまう。
 民ならばいい。力無き民なら、生きる糧に出来るから。平穏に暮らし、自分達の幸せを守ろうと……袁家に憎しみを向けながらも変わらない生活が出来る。民は力持ちし指標か、大きな理由がなければ立ち上がれない。力も指標も無き者達が義勇軍を起こすのは並大抵では出来ないのだ。弱き人々は自分達を支配してくれる統率者を求め、代わりに責を肩代わりしてくれる責任者も欲するモノである。
 しかし白馬義従は……幾多も防衛してきたという確固たる自信を持つが故に、自分達の力を抑え切れない。言いつけられていた命令を守って誤魔化していた気持ちは、誰かがそっと背中を推してやる事によって弾けてしまった。

 “集え白馬に”

 誰と共に行くのか。統率された連携が持ち味であるのだから、率いる誰かが必要だ。なら……誰と行く?
 火を付けられたのは噂話。白と黒の話をしていたモノ達に聞けばいい。愛する主が友の胸で泣いた事を知るのは、黒の身体しか居ない。
 そうして……彼らは白馬に集う前に、白馬義従としてカタチを為す場所を教えられる。わざわざ幽州から離れた場所……桂花が構えている陣に。一人、また一人と増えて行く。
 幽州に向かう前、雛里は鳳統隊を民に紛れさせて、兵士達に慟哭の夜の出来事が知れ渡るようにと潜ませていたのだ。
 街々に於いて、ある者達には酒屋で声を大にして語らせ、ある者達には民達に語り継いで噂を流させ……そうやって白馬義従にだけ効果のある策を仕掛けた。

 敵はこの地を踏み躙った侵略者。どうしてこの機を逃せようか。向かう城の名は自分達の主に所縁のあるモノで、自分達が従うはずの名でもあるのに……これを天の計らいと言わずしてなんという。

 長老は白馬義従が向かう程度なら問題ないと思っている。憎しみはそれほど抑えがたく、忠義に反してでも白蓮にナニカを返したい気持ちも痛い程に分かるが故に。
 ただ、雛里が願っているもう一つの策だけが……認められない。

「……彼が望んでいてもダメですか?」
「バ、バカを言いなさるな!」

 一喝。遂に怒りが弾けた。
 急な大声にビクリと身体を引くつかせるも、雛里は力強い目で見つめ返す。
 ハッと我に返った長老は、コホン、と咳払いを一つ。

「……徐晃様は望まんはず。絶対にそんな事はせん。そんな……“関靖様の斧で皆を扇動しよう”など、絶対に望まんはずじゃろうに」

 ありえんよ、と表情を歪めて顔を背けた。雛里の言う通りに求めたとしても信じられなかった。
 雛里の策は……牡丹の斧を白馬義従を導く為の指標にする事。ただそれだけの策である。
 たかが武器一つで何を言っている、と誰もが思う。しかし今回だけは、白馬の片腕の力が絶大な効果を発揮する状況となっていた。
 率いる部隊も、民の心も……そして外部への楔も、全てが斧を持ち寄るだけで捻じ曲がり、昇華出来る。
 実際、雛里が見た限りではこの地の民も白馬義従も危うい状態にあった。行き過ぎた信仰、と言い換えてもいい。
 自ら命を投げ捨てて主を逃がした片腕が彼と共に戦っている……それがどれだけ、この地の民を勇気付ける噂として語られるのか。憎き敵を殺されたモノの武器で叩き斬る様は、どれだけ皆の心の澱みを晴らす昏い願望なのか。そしてこの戦の後にこの地で暮らすべきはずの彼女に……どれだけ辛い一手を差し込めるのか。
 破裂寸前の想いが溢れるこの大地は、これから華琳が治めるには些か手に余る。例え彼がいようとも、覇王に従わせるにはもう一手追加で打った方がいいと雛里は判断していた。
 士気向上、怨嗟のガス抜き、未来への糸。大きな効果が期待出来るのはこの三つ。

――ただ、その為に利用される関靖さんの斧は、白馬義従が持つ憎しみを増幅させる為の装置に過ぎなくなる。彼女が何を思って死んだかも、何のために戦ったかも、全てを無視して。

「徐晃様は人の想いを大事にしとった。死者の憎しみを利用するなど、あの優しい方がするはずも無い。何より、関靖様がそのような行い、望まれるはずも無いんじゃ」

 声が震えていた。長老は牡丹を知っている。いや、自分なりに思い描く牡丹が心の内に居る。
 自分の知っている牡丹なら、彼に怒鳴って張り飛ばして、何をバカな事しようとしてんですかっ……と言うに違いない、と。
 雛里は眉を顰めて、長老の話に聞き込んでいた。

「もう……休ませてあげては如何かの。あの子は守り切った。自分の愛する主を守り切った。それでいいじゃろう? 仇討ちは生きているモノが澱みを晴らす為にするモノじゃ。心を割り切る為に、これから新しく一歩踏み出す為に……。
 それにの、あれほど安らかな死に顔をしていたあの子が、憎しみをそのままに死んだとは思えん。あの子の誇り高き死を……穢さんで下さらんか」

 泣きそうな顔で孫娘を想うように語られて、雛里の表情がより一層曇る。
 死者の想いを穢す、それは彼が一番したくなかった事。
 しかし、違う……と、心の内で呟いた。

――彼はそんなに綺麗じゃない。例え関靖さんが望もうと望むまいと、彼は他人を利用して乱世を捻じ曲げる一手を打つ。それをしてしまう人だから壊れてしまった。

 この地に居た時の秋斗しか知らない長老では無理も無い。
 乱世を終わらせる為に必要とあればなんでも利用する黒麒麟を誰よりも知っているのは、雛里しかいないのだから。
 ただ、雛里が彼の全てを理解しているかと言えば、否である。

「……彼と私は別行動なので、これは私が考えた手段です。斧を持って行っても、彼が使うかどうかは分かりません」

 きっと記憶があったなら使うだろう、とは雛里も言わない。
 自分の卑怯さに気持ち悪さが込み上げるも、“嘘つき”になると決めたから……と斬って捨てた。

「……持って行きたいのでしたら徐晃様を連れて来て下され。わしはあの方から直接言われない限りは首を縦には振らん。あの方がどれだけ袁家を憎んでおられるか分からんから、な」
「白馬義従の生存率を上げる為にも、どうか……」
「大馬鹿者共が自分の意思で向かったのじゃ、覚悟の内じゃろうて。其処に不純物を混ぜれば後々どうなるか……あなたも分かっておいでじゃろ?」

 例え才無くとも、積み上げた年月から長老の知恵は深く広い。あらゆる人々を見てきた経験は何物にも得難い宝である。
 見くびっていた、とは雛里も思っていない。お年寄りと触れ合う機会など、村や町で出来る限り人々を助けて励まして来た劉備軍ではざらにあった。だから、言い当てられても揺るがない。

「そうですね、憎しみの増幅から純粋だった守りの想いに大きなズレが生じます。敵を打ち倒し、彼らの目的が達成されても、結局は主が居ないという空虚な事実に打ちのめされ、より強い渇望が新たに生み出されるかと。この地を守るべき彼らから……黒に染まるモノが出てくるでしょう」

 敵を憎み、殺しても主が戻ってこなかったなら、結局は自己満足の理由付けでしかなかったと時間が経てば皆気付くであろう。
 そうなれば、彼らが一番求めた主を取り戻す為にと、彼の元に吸収されるは必然。一度決壊してしまった想いの堰は白馬の王でしか止められなくなる。
 曹操軍としては優秀な騎馬隊が手に入る事は嬉しい限りだが、彼らが白蓮や嘗ての仲間達を前にして戦えるかと言われれば否。敵に対して躊躇いを持つ兵は、華琳の元で戦う秋斗が率いる部隊には相応しくない……と雛里は考えている。
 長老は白蓮が桃香の元から離れないと確信しており、互いが向かい合えば不利益にしかならないだろうと説いているだけだが、それでも雛里の考えの大まかなモノではある。
 “仁徳の君”と“覇王”は相容れない。黒き大徳と白馬の王が争うのは避けられない。なら、彼の元で戦う白馬義従は……誰に従い、誰を殺せばよいのか、と。

「殺せんよ。あやつらには同じ釜の飯を食った仲間を真ん前からは殺せん。お主らはどうじゃ? 鞍を並べて戦った仲間、生死を共にしてきた戦友たちを殺せるか?」

 不意に、長老が雛里の後ろの兵達に声を掛けた。同意を求める視線を向けていた。
 兵達は悩む……事無く、表情を引き締めて短く息を吐いた。
 哀しい事に、戦場を知らない長老は、尋ねた相手がどれだけ異質な者達か知らなかった。

「御大将の命令とあらば隣に並ぶ友であろうとも切り捨てましょう」

 綺麗に重なった二人の声に、長老はあんぐりと口を開け放つ。
 黒麒麟の身体にそのような質問は無意味である。誰であろうと迷うことなく、彼の敵として立ちはだかり、平穏の世を作る邪魔をするなら……死、あるのみ。
 雛里は苦笑を一つ零す。黒に染まった彼らの在り方が、誰にも理解されないのは分かっていた。

「長老さん、主を既に定めている白馬義従は彼らみたいにはなれませんよ。だから必ずこの地を守って貰います。この大地だけは、黒に染まってはダメなんです」
「……何か考えがおありなのか?」

 疑問を向ける表情は少しだけ恐れが滲む。友であろうと殺すと言われては、彼に対してさえ疑念が浮かんでいた。

「袁家が滅びても白蓮さんは戻ってこないでしょう。あの方は友達を大切にする人です。旧知の友を見捨てて家に帰るなんて……そんな不義理な事を出来る人ではないので皆さんが王として慕い、認めています」

 長老は髭を手で撫でながら思考に潜るも答えは出ない。
 友と敵対の道を選んだのに、と雛里の胸にビシリと痛みが走るも、息を吸って押し込んだ。

「それに、こちらがどんな策を以ってしても、伏竜は仁徳の君の為に白蓮さんを手放さないでしょう。なら彼に出来る事はなんでしょうか」

 遠く、宙を見つめる雛里の視線は穏やかにして甘く、まるで誇らしい夫の帰りを待つ妻のよう。

「友の愛した大地を少しでも良くするのが彼の望み。壊さず、黒に染めず、あの頃の暖かさをそのままに豊かにして、乱世の果てで白蓮さんに返したい……だから、彼は白馬義従を一兵たりとも受け入れません」

 例え雛里自身が、この幽州の地をも騙す大嘘つきになろうとも、嘗て彼が心より望んだ平穏の時間を再び。それが雛里が幽州に望むモノ。

――その為に、今の彼を“私が”嘘つきにする。黒麒麟を演じさせるのは私だから、想いの重責を軽減させられる。そうすれば、彼は間違っても身を滅ぼす程の想いを宿す事はない。

 人々は英雄を望む。今の彼ではなく黒麒麟を望み続ける。どちらにしろ彼は黒麒麟として皆の前で生活しなければならない。
 だから雛里は……彼に台本を与えて道化師にする事を選んでいる。自分が嘘をつかせるだけだから、あなたは何も気にしなくていいんです、と。
 思わず、自嘲の笑みが零れそうになる。自分の意思で自由に生きてと願っているのに、結局は縛り付けてしまう二律背反であると気付いた。
 どうか憎んで、嫌って欲しい、と願う。

――もう、自分の命を投げ捨てるように生きて欲しくない。

 やはり、誰かの為に壊れて行く彼にだけはならないで欲しいから。

「……ふむ、兵は将の色に染まると聞く。お主らよ、鳳雛様の話、どう思う?」

 不意な問いかけに目を瞑り、二人の兵士は唇を噛みしめた。
 ああ、治世で過ごす優しい彼ならば……きっとそうしたかったのだろうな、と考えて。
 後に、ふっと優しく吐息を漏らした。

「白馬義従が戦えないなら俺達が戦うだけだわな。ふんじばって引き摺ってくればいいってわけだ。そうすりゃ白の大地は幸せになる」
「御大将が望むのは平穏な世。こんないい街を作る人を、あの方が殺すわけねぇんだ。俺達と向こうさんの幾人かは死ぬだろうが、御大将とこの街の皆、そんで哀しくない世の為になる喧嘩なら遣り甲斐があるぜ」

 そこまで聞いてまたあんぐりと、長老は口を開け放った。いきなり口調が砕けたのにも呆気に取られていた。
 自分達が彼の色に染まっていると言うなら、彼らはいつものように語ればいいだけである。

「け、喧嘩……?」
「おう、大老さま。喧嘩だ喧嘩。御大将と俺達が白馬の王と戦うなら、その場所はただの喧嘩に過ぎねぇ。殺す奴等には申し訳ねぇが、俺らにも譲れねぇもんがあるからな」
「言葉で分かり合えないから殴り合う。立場とかしがらみってのがあるから殺し合う。俺達も付き合って殺し合わなきゃなんねぇが……喧嘩ってのは意地張ってなんぼだ。黒と白に譲れねぇ意地があるなら、俺達の命賭けてくれて構わねぇ。まあ、白の部隊を一人でも多く生かして、あんたらの王を取り戻してやんよ」

 ははっ、と楽しげに語らう兵士達。
 何が哀しくて友と殺し合いをしなくてはならないのか、とは彼らは言わない。理不尽だ、下らない争いだ、とも叫ばない。押し通したいモノがあるから、自分達は戦っているのだと言わんばかり。
 彼ら自身でさえ、数多の敵と戦友たちに理不尽を齎してきたのだから当然でもある……が、秋斗のように細部までは想いを向けない為に、彼らは壊れず、今尚バカ者の集団として雛里と戦っているのだ。

「くくっ……徐晃様の兵は変じゃの。いや、あの方も子供のようじゃったからのう……彼の部隊に相応しいのやもしれんな」

 呆れたように苦笑を零した長老は、何処か親しみの眼差しを向けていた。

「ただな、大老さまよ。俺らにも今すぐ殺したいくらい憎い相手がいやがんだ。だから白馬義従の気持ちもよぉく分かる」
「もし、同じような状況なら、御大将の剣があるだけで俺達はきばれるってもんさ。心が震える、力が湧く、あの方の想いを感じられる。そうすりゃ俺達は御大将が居なくても黒麒麟としてより強く戦えるってな。だからほら、白馬に向かう時の鳳雛様の言葉次第って事で……どうよ?」

 憎しみの指標では無く、奮い立たせる心の支えとしてだけに使うのはどうか。
 牡丹なら、怨嗟に染まった白馬義従の心に一番の白を感じさせられる。それなら、死者の想いは汚されない。言い方一つで大きく違った。

「……どうか、私達に彼女の斧をお貸しください」

 また雛里が頭を下げる。決して上げない顔には、涙が滲んでいた。
 雛里は気付いてなかった。彼らが白馬義従と同じであると。自分と同じく憎くて仕方ない相手が居て、皆が慕った“彼”はもういない。
 もし、彼が死んでいたなら、剣が一つ近くにあるだけで、彼らも雛里も黒麒麟の角を手に入れられる。戻らなかったなら……共に戦う今の彼を見て、黒麒麟と鳳凰を遣り切れる。彼の想いを思い出して、憎しみを飼い慣らし、彼の望んだ世界の為に戦う事が出来るだろう。
 雛里は心の内で兵士達に感謝を述べ、

――でももう一つ、彼らしい斧の使い道がある。ごめんなさい……私は、うそつきです。

 そして、皆に懺悔を零していた。ズキリ、と胸が痛んだ。今の彼に対して、白馬義従に対して、街の者に対して、牡丹に対して……嘘をついた痛みであった。

「……ならばよかろう。関靖様の斧を預けよう。ただ、くれぐれも彼女を貶めんで下され」
「……っ、ありがとうございます」

 震えながら礼を言った雛里は顔を上げず。痛む心を抑え付けて、緩く吐息を吐き出す。
 戦場を住処とする冷たい黒麒麟を思い出そうとしても、出てくるのは優しい彼ばかり。
 自分の考えた手段を黒麒麟も使うだろうと信じているのに、記憶の中の彼を傷つけている気がした。

 雛里は知らなかった。彼が白蓮に怒った事を。
 牡丹の髪留めを付けた白蓮を認めず、片腕と混ざらずに憧れられたままの白蓮で居て欲しいと願った事を。

 雛里は自分の中の黒麒麟しか見えていない為に、彼がこの世界に望んでいた未来の絵図を読み取れない。
 故に、自分が黒麒麟のマガイモノでしかないと、気付くことは無かった。




 †




 二つの伝令が桂花の元に届けられていた。
 一つは風からのモノ。予定通り白馬と延津を放棄する、とのこと。
 もう一つは……彼女が敬愛してやまない華琳から。五百の麒麟を都に向かわせろ、とのこと。

――五百……ってことは、徐州で夕を退けた徐晃隊を使うおつもりなのね。なら、帝を洛陽から私達の街に連れ出す、か。張勲の件があるけど、袁術が居る限り街はあっちの策で大火に沈まないし、区画警備隊も厳重に見回るから袁家大本の方も迂闊には手を出せない。まあ、華琳様の事だから連れて行った親衛隊を街の警備に当てる事も考えていらっしゃるでしょう。他にも……

 一つの命令だけで華琳の狙いを全て読み取っていく桂花。表情は徐々に蕩けて行く。
 劉表の死は既に情報として入っている。それに伴って、劉表軍が揚州に攻め込むであろう事も予測の内。

『暗殺されたのかもしれない、いや、されたのだろう』

 虎と龍がどういった関係であったかを思い出せば、龍の臣下達は無実と示されても信じれない。この時代で完全に疑念を晴らすのは、少しばかり難しい。
 龍は自分の命を使って戦を起こさせたのだ、と桂花は結論に至り、上手い策だと内心で褒めた。

――陳宮を帰らせたのは呂布と共に虎の留守を攻める為って分かってた。でも、これで劉表自体の名が傷つく事は無い。部下の暴走というカタチにすれば、敗北後の荊州は混沌とした派閥争いで泥沼になるから……劉備と孫策が横から掻っ攫っても問題ない。劉の名の方が有利に働くし、後々に私達と相対するには孫策が一歩退いて対応するしかなくなる。

 同時に、早々と華琳がこの展開を読み切っていたのだという事に畏怖を覚え、身体が少しばかり震えた。

――そうなると夕と私に河北の掌握を任せて次は……ってダメよこれじゃ。まだ目の前の敵を倒してない。あの子を助け出してないじゃない。

 そのまま乱世の先に思考が向きそうになるのを、桂花は無理やり押し留めた。
 獲らぬ狸の皮算用。予想を立てるのは構わないが、今戦っている敵は他ならぬ華琳が認めた好敵手。浮ついた頭では、取って食われるだけ。
 大きく深呼吸を二回。カロリーメイトを食べた後、机の上のお茶を手に取って口を潤す。

「ん……よし、先の事はまだいい。集中しなきゃだめよ、桂花」

 誰に言うでも無い、自分で自分を鼓舞し、手に入れたいモノを再確認。
 立ち上がり、しゃんと背筋を伸ばして天幕の入り口をバサッと乱暴に開いた。

――集ってきた騎馬隊の所に行かないと。まだこっちの準備は整い切ってないんだから。

 騎馬を多く連れて行くという事は兵糧の関係が乏しくなる。
 だから、桂花はこの時機まで待った。白馬と延津で数度の衝突が起こり、曹操軍が官渡に引くこの時まで。
 でも……と内心でため息をついた。

――人心掌握に重きを置く夕なら、幽州の白馬義従を使う所までは“読んでいる”はず。だから、此処からが勝負どころよね。

 敵対している親友の能力は桂花自身が良く知っていた。
 戦略的思考の高さでは一歩劣る。負けたくないとは思っても、自己分析が出来ていなければ軍師など勤まらない。
 ただ、彼女としてはこれでいい。此処までなるとは、夕も思っても見ないだろうから。

――白馬義従その数……一万五千強。神速に比肩出来る騎馬部隊は、袁家との野戦では私と雛里が大きな指示を出すだけでいい。

 指揮する王と片腕は居ないが、精強さは言うまでも無く。外敵からの防衛を繰り返してきた彼ら自身が指揮すれば彼女達までとは行かずとも相応の戦術が打てる。
 公孫賛の癖は雛里から聞いている。可もなく不可もなく、頑強にして堅実な用兵。あの霞でさえ手古摺った程なのだ。袁家の騎兵が相手取るには不足に過ぎる。
 攪乱と陽動、奇襲に追撃。騎兵特化の部隊を加えれば戦術の幅が段違いになる。
 問題はやはり物資。如何に官渡と密な連携が出来るかがカギとなるが……これだけ大量の馬が手に入ったなら、その問題も徐州との往復を分けて行えば容易に解決出来る。
 歩むこと幾分。やっと目的の場所に着いた。
 居並び、ぎらぎらと殺気立った目を輝かせる白馬義従を見据えて、桂花は大きく深呼吸を一つ。
 キッと睨みつけて、声を上げた。

「よく集まってくれたわね。白馬の義に従う勇者達」 

 彼らは知らない。曹操軍が白蓮との同盟を断った事を知らない。
 言わずともいい。これは乱世だ。万が一、知っているモノがいようとも、共通の敵を打ち滅ぼす為ならば、手を貸す事はあるだろう。それほどに、彼らの怨嗟は根強く深い。憎き敵は袁家であるのだから、裏切りは万に一つも有り得ない……雛里が持ってくる斧さえあれば、より確実に。
 一斉に桂花に視線が突き刺さった。
 早く早くと急かすように見えるのは、主への忠義からか、それとも心に持ち寄る憎しみ故か。

「袁家を殺したい? 殺したいでしょうね。私も同じだわ」

 おお、と誰かから声が漏れた。
 濁った瞳は鈍色に輝き、同志を得たのかと歓喜に燃える。たった一つ共通した同じモノを持つだけで、警戒と疑念を下げて連帯感を持たせられる群集心理の一手。

「面白い話をしてあげる」

 駆り立てるには、心を燃やさせるには、仮初めでも絆を繋がせるには……この方法が一番。だから桂花は言葉を紡ぐ。

「私の友達が袁家に居るんだけど、母親を人質に取られてるから戦わなくちゃならない。その子は逃げられなくて……殺し合いをしなくちゃダメになった。大事な、大事な友達。でもずっと待ってた。ずっとずっと待ってたわ、この時を……袁家を打ち滅ぼして、友達を呪縛から救い出せるこの時をっ」

 気付けば、歯を噛みしめていた。声が大きくなっていた。普段なら、男の前でそんな姿など見せたくないというのに。
 悲哀が揺れる瞳は、兵達の目にはどう映るか。大きくとも震える声は、心に響かないはずがない。
 彼らの主は友への親愛を大切にしていた。あの三人が夜天に願った話は、彼ら全てが聞いたことのある大事な約束。袁家に壊されてしまった、叶わない願い。
 麗羽と白蓮が旧知の仲で、いがみ合っていても互いに認め合っていた事を彼らは知らず。だからこそ、桂花の言葉は、友の仲を引き裂く袁家に対する憎しみを加速させた。

「私怨私欲は戦に持ち込むな……誰かが言うでしょう。きっと、武人も、軍師も、王でさえも、皆がそう言うのは間違いない」

 抑えるように紡がれたのは戦の理。守らなければならない心の在り方。しかしながら、そんな簡単に収まるほど、人の心は綺麗には出来ていない。

「でも……大切なモノを泣かせた奴等への怒りは、この胸の内で燃えてる」

 応、と幾つか声が上がる。
 涙を流して、唇を噛みしめて、顔をくしゃくしゃに歪めて……ほとんどの兵士達は耐えていた。
 燃える瞳に熱さを感じて、この少女の怒りは本物だと理解した。

「白馬義従……私が肯定してあげる。あんた達のその心。殺したいと願うその悪しき想い。取り返したいと願うその純粋な想い。全部ひっくるめて認めてあげる。だから、聞きなさい」

 静寂に風が一陣。運ばれて吹き抜けたのは……きっと寂しさ。心に空いた穴が、寂しいと喚いていた。
 彼らも桂花も、大切なモノが居ない事が、寂しくて仕方ない。
 求めるモノは違えども、共有された想いはほぼ同じ。目的は……間違いなく一致していた。

「あんた達の誇りは幽州を守る事にこそある……それでも、耐えられなくて集まった。悔しくて此処に来た。取り返したくて駆けてしまった。なら……この戦でだけは、白を辞めなさい」

 雛里が考えた口上は、この兵士達には絶大な効果を発揮する。
 自分が言うのは嫌だったが、白馬義従と想いが似ているから、桂花はそのまま口に出した。

「白の勇者達よ……黒に染まれっ」

 怒号が上がった。怨嗟の声が。今は、今この戦だけは、自分達は黒になるのだ、と。主の友と同じになるのだ、と。

 忠義への裏切りだ。それでも主を返して欲しい。
 誇りへの侮辱だ。それでも平穏を返して欲しい。

 もう彼らは、抑えられない。求めるのはたった一人。共に戦った戦友で、一緒に過ごしてきた家族で、皆を愛してくれた主。家を自らの手で取り戻して返したい相手は……北方の英雄、白馬長史。
 白馬義従達に対して、桂花は黒布を腕に巻かせた。共に戦うなら、黒と共に在れるように、と。
 物資輸送の指示を出した後に解散を伝えて……口を引き裂く。

――憎しみは連鎖するモノよ。もう止められない。あんた達はこれから劉備を憎まずにいられない。白の大地を黒には染めない……けど、白と黒を混ぜ合わせて、灰色になればいい。そうすれば華琳様の為に幾つも手札が増やせるんだから。

 雛里と桂花が引こうとしている糸が何の為であるのか、白の勇者達は知る由も無かった。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

牡丹ちゃんの斧。黒麒麟ならどういう使い方をするでしょうか。
雛里ちゃんは思い出の中の彼しか判断材料がありません。

補足として一つ。
白馬義従を含め幽州の人達は、“自分たちがこんなに憎んでいるのだから、彼はどれだけの憎しみを宿しているのか”という考えを持っています。

次は漸く官渡本番。
話末でのアレも再び始動です。

ではまた 
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