シスター
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第一章
第一章
シスター
恋は熱病というのはフランスの作家スタンダールの言葉だった。急にやって来てそして誰彼なしに襲い掛かって苛む。それに取り憑かれたら最後もうどうしようもなくなる。起きても覚めてもそのことばかり考えて他のことには目がいかなくなってしまう。何時去るのか、その熱病が更に悪化するのかさえわかりはしない。こればかりはどうにかする薬もないしその相手すら誰になるのかさえわからない。かかったら最後だ。それでかかった者は男でも女でも朝も昼も夜もうなされる羽目になる。それが恋というものの恐ろしさだ。
恋はかかる者もそのかかった者が愛する相手も選びはしない。それは時としてとんでもない相手になることがある。しかしそれでもどうにもならない。恋にかかったらそれで終わりなのだ。
長い歴史を持つある街にその大学はあった。プロテスタント系のこれまた古い歴史を持っている学校だ。創設者は何でもアメリカでキリスト教の洗礼を受けて来たらしい。信仰心が篤く生真面目で心優しい人物だったという。
その彼が創設した大学にその若者はいた。名前を小野修治という。法学部にいるごくありふれた学生だった。背も特に高くはなく、髪は少し長くて顔は細面である。目は少し茶色がかっている黒でそれがほんのちょっとだけ日本人離れしているようにも見えた。けれど父親も母親も純粋な日本人でその顔は完全に父親似だと言われている。身体つきは細くてあまり筋肉はない。要するに優男だ。何処にでもいるような平凡な大学生でアパートから大学に通っている。
その修治がこの熱病にかかっている張本人であった。この病には常に相手が存在する。その相手が何よりも問題なのであった。
「どうにかならないかなあ」
彼は礼拝堂を覗き込んでこう呟いた。その向こうには一人のシスターがいた。
「やっぱり。幾ら何でも難しいよな」
彼は呟いて溜息を吐き出すだけであった。彼が恋焦がれているのはそのシスターなのであった。
キリスト教の大学なので当然シスターといったものも存在する。彼女はこの大学に務めるシスターであり大学の神学科の卒業生でもある。修治の先輩にあたるのだが彼はそれはあまり気にはしていなかった。問題は彼女がシスターであるということなのである。
この大学はプロテスタントなのでカトリックのそれのように一生独身でいなければならないというものではない。プロテスタントの創始者であるマルティン=ルターは元修道女と結婚して六人の子供をもうけている。その一生から激しい気性の持ち主であると思われ易い彼であるが意外にも子煩悩な父親であったという。だがそれでも中々言いにくい相手であるのは変わりがなかった。
「シスターが相手なんて」
そのシスターの名はミカエラという。楚々とした外見と華やかな容姿を併せ持っており、小さな顔は白く、そしてシミも汚れもない。鼻も目も整っており、口は小さい。目は大きくて二重の瞳がその顔によく合っている。修治は大学に入って彼女を見るなり心を奪われてしまったのである。
「どうにかならないのかなあ」
だが告白することはおろか話をすることさえできないでいた。ただ遠くから見ているだけであった。それが非常にもどかしいがどうにもなるものではない。それがかえって彼を悩ませることとなった。熱病は彼を袋小路に追い込んでいたのであった。
彼は溜息をつきながら礼拝堂を覗き込んでいる。そんな彼に後ろから声をかける者がいた。
「これ」
「は、はい」
慌てて背筋をピンと立てる。それは年老いた男の声であった。
「この大学の学生さんとお見受けしますが。何の御用ですか」
それは牧師の声であった。振り返れば丸眼鏡をかけた温厚そうな顔の牧師がそこにいた。そして修治に声をかけていたのであった。
「ぼ、牧師様」
「礼拝堂を覗いておられるようですが。何かあるのですかな」
「い、いえ別に」
傍目から見てもかなり怪しい態度であっただろう。修治は必死に何かを打ち消していた。
「何でもないです」
「そうなのですか?」
牧師の声は疑うものではなかったがやはり警戒するものがあった。
「礼拝堂には誰が入ってもいいです」
「はい」
修治は狼狽を残したまま頷いた。
「ですから。覗かれる必要はありませんよ」
「それはわかっていますが」
「わかっていますが?」
「いえ、何でもないです」
修治は答えようとしたがそれを止めた。
「何でもないですので」
そう言ってその場を立ち去った。そしてそのまま礼拝堂から逃げる様にして消えたのであった。
修治はどうしてもシスターに自分のことを伝えることはできなかった。何と言えばいいかわからず、戸惑っているばかりであった。その名前すら聞いてはいないし、ただ遠くから見て溜息をつくばかりであった。そんな自分がもどかしくて仕方なかったがだからといって何をしていいのかもわからなかった。彼は完全に手詰まりとなっていた。
そんな彼であったが実は今大学で教育実習の研修を受けていた。場所はこの大学と同じ学園の中等部であった。彼はそこで社会科の実習を受けていたのである。
「それでここは」
彼は教員の監督の下研修を行っていた。授業自体はつつがなく行い、その評価は高かった。生徒からの評判も上々であった。
「中々いいじゃないですか」
指導官である年配の教員からも言われた。
「筋がいいというか」
「有り難うございます」
彼は職員室で話を受けていた。先程の授業がよかったと褒められているのである。
「このままいくと立派な先生になれますよ」
「はい」
「先生になられるのですよね」
「ええ、出来れば」
彼は答えた。
「そうなりたいとは思っています」
「うんうん、それはいいことです」
指導官の先生はそれを聞いて満足そうに頷いた。
「ではそうなられるのを楽しみにしていますよ」
「はい」
幾分か社交辞令が入っていたがそれでも修治の実習が高評価なのは事実だった。彼は寝る暇も惜しんで勉強し、そうした評価を掴んでいたのだ。そんな彼を学生達が慕うのも当然であった。
「先生」
授業を終えて廊下を歩いている彼にそんな学生の中でもとりわけ小柄で可愛らしい女の子が声をかけてきた。栗脇華子という。
「何かな」
「わからないところがあるんですけれど」
「?何処かな」
彼はそれに快く応えて自分が手に持っている教科書を開く。教師として合格と言える対応であった。無能で怠慢な教師ならばここで自分でやれ、という。そうした輩はそもそも教師になること自体が間違いであるが。
「ここです」
華子はその小さい身体を必死に伸ばし自分の教科書を開いて尋ねる。見ればその教科書は重要な部分の所々に赤いペンでマークがされていた。真面目な生徒であるのがわかる。
「ここが。よくわからないんですけれど」
「ああ、そこはね」
修治がそれを教える。丁度彼のよく知っている部分だったので教えること自体はスムーズにいった。
「これでわかったかな」
「はい」
華子は清らかな声で返事をした。
「有り難うございます」
「よし。それじゃあね」
修治は別れようとする。だがそんな彼を華子はまた呼び止めた。
「あの、待って下さい」
「?まだ何かあるの?」
「はい、少し」
急に華子の様子がおかしくなった。
「あの、実は」
華子はもじもじしながら言った。
「廊下じゃ何ですから放課後に」
「放課後に?」
「学校の教会まで来て頂けないでしょうか」
「ああ、いいよ」
修治は特に考えることなくそれに応えた。
「それじゃ放課後にね。中等部の教会で」
「はい、お願いします」
華子はそれを聞いてすぐに修治の側から姿を消した。修治はそんな華子の様子を見て妙な感触を覚えていた。だが今は次の授業のことについて考えなければならず、注意はそちらに向けられた。華子について考えられるようになるのはとりあえずは放課後まで待たなければならなかった。
そして放課後になった。修治は次の日の用意を済ませた後で中等部の教会に向かった。向かいながらあれこれと考えていた。
「一体何なんだろう」
彼女が何ついて相談したいのか。まず考えた。
「勉強のことじゃないみたいだし」
それはもう廊下で終わっていた。
「生活のことかな?けれどそれは」
その為に担任がいる。もっともそういったことを話すのに値しない教師も中にはいるが。
「違うよなあ。じゃあ一体」
ここでふとあることに思い至った。
「まさか」
修治の顔に苦いものが走る。
「それはよくないぞ、若しそうだとしたら」
華子が自分のことを想っているのではないのか。そう考えたのである。
「僕は教える立場だ」
彼は言った。
「そして彼女は教えられる立場だ。教師と生徒なのにそんなことがあってはやっぱりまずいよな」
かなり勝手な考えであったがこの時彼はこれを真剣に悩んでいた。
「若しそうだとしたら断ろう。それが彼女の為だ」
そう決心した。それに相手はまだ中学生だ。何かあったらお互いが不幸になる。彼はそう思い今回は彼女を教え諭して拒むつもりであった。そうした分別はあった。
「よし」
意を決して教会に入る。外見と中身は大学の教会よりも新しかった。その為悪い印象は受けなかった。
教会の扉を開ける。するとそこにはもう華子がいた。席の最前列に座っていたが扉が開かれる音と差し込んで来た明かりで顔をこちらに向けてきた。茶色い教会の中がその光によって照らされる。それと共にキリストがかけられた十字架の後ろのステンドガラスが複雑な光を放って修治と華子を照らしはじめた。
「先生」
華子はその差し込む日の光とステンドガラスの輝きの下で立ち上がった。そして修治に声をかけてきた。
「来て下さったんですね」
「うん」
修治は意を決した顔で頷いた。何かあってはいけない。
「実は相談に乗って欲しいことが」
「何だい?」
ここで扉を閉じては何かあった時にまずい。そう思い扉はわざと開けたままにして華子の方へ向かう。茶色い教会の上は白く、それも目に入った。
「実は」
「うん、実は」
彼は華子の一挙手一投足に神経を集中させていた。
「悩んでいることがありまして」
「何かな」
ここで彼は華子に問うてきた。次には何を言ってくるか、それに注目していた。
「私、悩んでいるんです」
「どうやらそうみたいだね」
その時は、彼は覚悟を決めていた。だがそれは声には出さない。
「昨日のことですけれど」
「昨日のこと」
それを聞いて何かと考えた。
「六組の佐藤君に」
「ああ、彼だね」
誰かおおよそ察しはついた。野球部の格好いい少年である。この大学からは有名なプロ野球選手も何人か出ている。生憎高等部の野球は大して強くはないが中等部はそこそこ有名である。
「告白されたんです」
「そうだったのか」
とりあえず自分ではないとわかって内心ほっとした。やはり好きだと言ってきた相手を拒むのは男としてどうかと思うからだ。教師としてはそうしなければならないとしてもだ。そしてこの時修治は教師だった。
「はじめてなんです」
「告白されたのは?」
「はい。そして男の子と付き合うのも」
「それで僕にどうしていいか相談しに来たんだね」
「はい」
華子は頷いた。
「私。どうしたらいいんでしょうか」
「そうだね」
彼は一呼吸置いてからそれに答えた。
「まずは少し様子を見たらどうかな」
「様子を、ですか」
「相手が本気かどうかね。見極めてから」
「佐藤君は本気じゃないんですか?」
「あくまで可能性の一つだよ」
彼はそう断ったうえで述べた。
「男ってのはね。案外曲者なんだ」
「はあ」
男である自分が言うのも何だと思った。だがどうやらこの華子という娘はこうしたことははじめてだ。疎いなどといったレベルではない。ではこう釘を刺しておくのも悪くないと思ったのだ。
「騙したり、嘘をついたり。そうした生き物なのさ」
「怖いんですね、男の子って」
「まあね」
彼は言った。ちなみに彼は相手が男の場合はそのまま男の部分を女に変えて説明をする。男も女も互いを騙すものだ。シニカルなものである。男心も女心も同じもの、所詮は風の中の羽根なのである。いつも変わるものだ。嘘と偽りに満ちたものである。しかしそれを見極めることこそ恋なのである。修治は自分のことはさておき華子にはこう言おうとしていたのである。
「怖いものなんだよ、男ってのは」
彼は真剣な顔でこう言った。
「だからさ」
「それはどうでしょうか」
しかしここで教会の礼拝堂の横の扉が開いた。
「!?」
修治はその開かれた扉に目をやった。するとそこにあのシスターがいた。修治が恋焦がれ、話すらできないでいたあのシスターだ。彼女が今自分の前に不意に姿を現わした。一瞬心臓が止まりそうになった。
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