残り香
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第一章
第一章
残り香
伊吹政孝はだ。香水をつけない。しかしである。
「あいつが傍を通るとな」
「ああ」
「いつもだよな」
「いい香りがするわね」
「本当にね」
社内でいつも評判になった。
「物凄くいい香りだけれど」
「薔薇?」
「そう、薔薇だよな」
「あの香りはね」
「間違いありませんよ」
社内ではその香りが何かも評判になっていた。
「薔薇の香水をつけてるのかな」
「あれで意外と洒落者だしな」
「香水をつけてもね」
「おかしくありませんよね」
しかし彼はだ。そのことについては笑顔でこう言うのである。
「僕は香水なんて付けないよ」
「けれど実際に」
「薔薇の香りがするし」
「そう言われてもちょっと」
「香りは」
「ははは、けれど本当に着けないよ」
それは常に否定するのだった。
「調べてもらってもいいよ。服に香りがするかな」
こうして実際に服やネクタイを調べるとだ。そこからは何も香りがしない。全くの無臭、清潔そのものの香りと言っていいものだった。
それを確かめてだ。皆は言うのであった。
「あれっ、全然香りがしないし」
「どうしてなんだ?」
「確かに薔薇の香りがするのに」
「何故なんですか?」
「どうしてだろうね」
政孝はここでいつもとぼけたように言うのであった。
「それは」
「あっ、隠してる」
「何なんだよ」
「隠すなんて酷いですよ」
「そうですよ」
「それでもすぐにわかることじゃないかな」
こう言うだけの彼だった。
「これってね」
「わかるか?」
「いいや」
同僚や後輩達は首を傾げさせて言う。
「ちょっとな」
「そうだよな」
「どうして香るかなんて」
「わかる筈が」
「すぐにわかると思うけれどね。そう」
政孝はここで楽しげに笑ってだ。そのうえで言うのだった。
「相手がいればわかることかな」
「相手って」
「一体?」
「どういう意味なんですか?」
「やっぱりわかりません」
「だからすぐにわかることだよ」
政孝はここでも笑っていた。
「すぐにね」
「ううん、何なんだ」
「すぐにすぐにって」
「それでわかれば苦労はしませんけれど」
「全くですよ」
「僕が言うのはこれだけだよ」
彼はここまで話してそれで話を切ってきた。そうしてであった。
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