乱世の確率事象改変
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白が愛した大地
懐かしい空気……そんなモノを何処かで求めていた。
あるはずも無い幻想。遥か昔に感じられる程、もう遠くなってしまった思い出。
目に見えるモノは余り変わりないのに、どんなに求めてもあの頃の穏やかな空気は感じられなかった。
ただ、耳に入った“ソレ”が……心の中を擽った。
誰に向けたモノなのか。
何に向けたモノなのか。
事前に聞いていたから知っている。
でも、この耳に聞こえるだけでこんなに違う。
あの人が……本当は居たかった場所。
あの人が……壊したくなかった場所。
あの人が……最後に帰りたかった場所。
されども“ソレ”は、余りに似ている想いのカタチ。
私が声に出せば、あの人の為になるかもしれない。
口ずさめば、心が温かくなった。
まるであの人に想いを伝えられるようで。
でも、少しばかり泣きそうになった。
あの人は壊れる程に耐えていた、
彼女達を切り捨てたくない……その想いを呑み込んで
失ってしまう恐怖を押し殺して
助けに行けない無力さを噛みしめて
あの人は……それでも世の平穏を選んだ。
私では代わりになる事は出来ない。
でもきっと、あの人は此処に来れば……こう言いたかったに違いない。
だから笑顔で紡ごう、心の中の、あの人と一緒に。
「……ただいま」
†
雨風を凌ぐには屋根が必要なのは言うまでも無く、万に近い軍を動かすとなればその数も相応数用意しなければならない。
物資を運ぶ車は、舗装された道を通らなければならないし、馬で荒山を越えるわけにもいかない。大軍が動けば、対応の為に敵軍が動くのも当然。
だから……桂花は少数に分けて軍を動かした。徐州から北へ、北へと。
袁家の兵の大半は官渡に向かっている。残りは……幽州に集められていた。
――民の暴動は沈静化したと情報にあったけど……“ソレ”を再利用される事を恐れて、わざわざ張勲を幽州みたいな辺境に置いた。普通の軍師ならそう考える。
幽州まで後少しという地点で、桂花は軍を駐屯させている。此処から官渡までは少しばかり遠い。日数の計算はしているが、外部要因として攻め込むにはまだ時期が速い。
何より、雛里と描いた外部の絵図は……未だに完成していない。
――今も敵の領なのに他の豪族が力を貸さない所を見ると……外部要因である私達に当てる人員が足りない。これは間違いない。
一人、天幕の中で思考に潜る。傍には誰も居ない。ずっと一緒に居た雛里が……此処には居ないのだ。
ずずっ……とお茶を啜る。落ち着くにはいい手段だった。ここ数日、毎日そうやって桂花は逸る心を落ち着かせ、ただ機を待った。
彼女達が使える曹操軍の兵数は……鳳統隊を含めて一万。元劉備軍の兵士の大半は徐州に置いて来た。兵糧の問題もあり、他の場所や内部への警戒も見逃せなかった為である。
ただ、今回二人で練り上げたモノは必ず成功する……そう確信していた。
その証拠に……桂花は一つの報告を見て口を歪めた。
――雛里に任せれば問題ないわね。張勲が何の為に戦っているか……それだけが問題だったんだから。
彼女達が戦に於いて優先して見極めたのは状況では無く……個人。
その報告には、一つの不幸な出来事が記されていた。
潜ませた間諜は方々に渡っている。幽州にも袁家にも例外なく、どんな些細な情報でも逃すまいと張り巡らせてある。
桂花は……夕の狙いがある程度読める。だからこそ、官渡の戦がどういった風に描かれるか……では無く、別の視点でこの戦を見ていた。
――袁家を変えるつもりになったなら、仲間は多い方がいい。だから夕は……華琳様を“殺さない”。華琳様を殺しては、曹操軍が全て従わなくなるもの。
広く遠い王の視点。王を傀儡に出来る程の才を持つが故の王佐。なればこそ、桂花は夕がそういった戦の勝利の仕方を狙うと読んでいた。
劉表が華琳を洛陽に引き摺り込んだのは、桂花にとっては嬉しい誤算である。絶対条件として華琳の敗北を求めているのに、それが出来ないとなれば袁家側は一手か二手、遅らせざるを得なくなっている。
ただ、華琳の気性も、桂花は誰よりも理解している。
彼女の主は覇王。己が手で勝利を掴んでこそであろう、そう考える。なら、例え劉表に縛り付けられようとも、戦の最終局面には、必ず華琳は官渡に向かうであろう、と。
その準備を、桂花と雛里は外からするのだ。官渡での小競り合いはあちらにいる軍師達に任せていい。彼女達の能力に対しては、それが出来るとの信頼を置いても居る。
そうなると、外から夕の思考を読み、崩すためにはどうするか……やはり一番の問題は七乃率いる袁術軍であろう。
こちらが攻めようとしても、幽州は馬の名産地でもある為に、多くの騎馬を有する部隊によって即座に後背を突かれてしまう。
そも、兵数では袁家が有利であり、余剰分を割けば、官渡からこちらに対して挟撃を仕掛ける事も出来るのだ。だからこそ、官渡に波紋を齎すには、幽州に居座る七乃をどうにかするのが先決であった。
民の暴動は利用出来る。以前に打った一手が、予想を大きく超えて機能していたから容易い。それでも、そんなモノを桂花達は使うつもりが無かった。
じっくりと、また報告を読み直した。簡素な報告は直ぐに読み切れる。
店長作の“カロリーメイト”を一つ手に取って食し、お茶を取って流し込む。そうしてまた、一寸だけ口を歪めて……さて、と桂花はその紙を机の端に追い遣った。
――休憩は終わり。雛里も頑張っているでしょうし、内政案を進めなきゃ。
筆をとって、さらさらと書簡に書き連ねて行く。
少し無茶をさせるが、雛里が死ぬという心配は全くしていなかった。“彼ら”に任せておけば問題ない……今の桂花は信頼を以ってそう言えた。
机の端、見える紙に浮かび上がる文字は少ない。
ただ、誰かの絶望を表しているその報告が、桂花が大切な友を救い出す為の希望であった。
『袁術が南皮に移動するに当たり、幽州の暴徒の襲撃を受けて行方不明』
紙にはそう書かれていた。
ふと、思い出したように顔を上げ、顎に指を一つ当てる。
「そろそろ……雛里が出した手紙が届く頃かしら……」
それでもやはり雛里の事が気になって仕方ないらしく、これではダメだと頭を振って、桂花はまた、黙々と己が仕事に取り掛かった。
†
わなわなと震える手。滴る汗は滝の如く。
今まで一度たりとて、誰にもこんな醜態を見せた事も無い。
追加を持ち寄った文官にすら気付かずに……ひっ、と上がった声にて漸く……彼女――――七乃はニコニコと笑顔を浮かべた。
「どうしましたぁ?」
普段通りの声音では、もう恐怖は拭い去れない。恐ろしい。悍ましい。人の持ち寄るあらゆる負の感情が、つい先ほどまで目の前の彼女の顔には出ていたのだ。
じりじりと脚を引く文官から目を切って、七乃はゆるりと立ち上がった。
「少し出ますから……後の事はお任せしますねぇ」
横を通り過ぎる彼女に、文官はまた一歩引いた。人外のモノを見るような怯えた目つきで、彼女の怒りに触れないようにと。
廊下は長い。走り出そうか、とも思ったが七乃はやめた。自分が走る時は、たった一人の愛しいモノを抱えて逃げる時だけと決めている。普段は自分を弱くはみせようとも、その時以外は決して余裕が無いそぶりなど誰にも見せたくない。
だからこれは……この殺意は、抑えなければならなかった。
苛立ちの代わりとばかりに、くしゃくしゃと、手に持っていた一枚の紙を丸めた。
クイ、とクラッシュキャップを整えて、彼女はニコニコ笑顔のままで今日も行く。
彼女が歩いているこの場所は何処かと……本当の意味で知っているモノの多くはもういない。
嘗て城にいた文官は方々に左遷され、居残っていたこの地所縁の下位武官達もばらけて端に送り出された。故に、此処はあの場所であってあの場所ではない。
彼女の愛した家は……壊されてしまった。否、袁家は、そうしなければならなかった。
昔は、悪戯が好きで、飄々としながらも誰かに纏わりついていた女が居た。やれメンマだ、やれ酒だと言いながらも、与えられた仕事をこなし、時にはさりげなく他の者の手伝いもしていた彼女は……もう居ない。
昔は、主に侍り、敬愛する主に煙たがられながらも付き従い続けた少女が居た。暴走して言葉を並べ立てる癖を聞き取れるモノは一人だけで、それでも愛しい主に想いを伝え続けていた彼女も……もう居ない。
昔は、へたれたり、呆れられたりしながらも王足らんと在り続けた少女が居た。決して折れず、曲がらず、積み上げる事を辞めず、愚痴をこぼす事は多々あっても、生きている皆を愛し、愛され続けていた彼女もやはり……此処には居ないのだ。
それがどれだけ恐ろしい事か、七乃だけは……この地を任せられ、街に脚を踏み入れた瞬間に理解していた。
幾多もの目。怨みを向ける目。憎しみを向ける目。蔑みを向ける目。
此処に暮らす民のほぼ全てが……敵。自分達を睨む全てのモノが、心の内に怨嗟を宿していた。
震えた。正しく、心の奥底まで。
自分のやり方とは真逆。絆よりも実益を優先させて民の心を縛り、ギリギリ行ける範囲を見極めて、非常にシビアな内政を繰り広げてきたのが七乃である。孫呉の大地でさえ、孫策という虎を飼い慣らした彼女のそういった手腕に屈した。
だから、七乃は自分のやり方を理解しているからこそ、そして孫呉の地を見てきたからこそ、彼女の……“白馬の王”の恐ろしさに気付けた。
美羽の影として、どんな手段を使おうと、孫堅の威光が覚めやらぬ揚州を鎮め、治めて来た七乃の経験を以ってしても……
――夕ちゃん、無理ですよ。いくら私でも……この幽州の大地は……荷が重すぎます。
この地を治めきるには、足り得なかった。
たった一つの州、それも揚州よりも小さな大地である。
何度も外敵からの防衛を繰り返し、疲弊の極みにあったこの大地。
そういった地を治める術に長けているはずの七乃でも、もはや抑え切れないのだ。
此処で暮らす“彼ら”が求めているのは“普通の人”。求めて止まないのは“普通の主”。飛び抜けた才無くとも皆を愛してくれた“普通の王”。
ずっとずっと守って愛してくれた恩を、“彼ら”は何一つ返せていない。
そう感じても、長老達が言い聞かせて抑え付ける。それが広がり、皆の耳へと届き得る。
『皆が平穏に生きてくれるのが最高の恩返しだ、と白馬の王なら言うであろう』
深く繋がったモノから順繰りに絆が広がり、そうやってこの地は回り行く。過去の人々であればそれを人徳と呼ぶだろう。ただ、七乃達の目から見るならば……狂信、と言っていい。
白蓮がそうなるように積み上げた。いや、白蓮が彼に出会って変わったからこそ、積み上げた努力が華開いた。
しかして一つ、白蓮以外の手によって、その積み上げられた努力の結晶の絆が引き上げられていた。“ソレ”こそ、この地がある種の狂気に堕ちた原因である。
街を歩けば歌が聴こえた。
毎日のように歌が聴こえた。
男も女も、老人も子供も、気付けば何処かで歌を口ずさんでいた。
この歌を禁ずる、と袁家からお触れが出ても歌が止まなかった。歌を歌って厳罰に処されるなど前例が無い。それでも袁家は禁じたかった。抑えられると思っていた。
初めに罰されたのは元兵士だった。見せしめとして大勢の前で鞭打たれたはずなのに、直ぐに街にはその歌が溢れかえった。
二人目、より厳罰をと触れ回った後……捕えられてより強固に鞭打たれたのは普通の街男であった。
彼は捕まる時にこう言った。
『俺には力が無い。人を殺す度胸も無い。だから歌を歌うんだ。それがあの方に対するせめてもの恩返しだ。袁家が何だ。この声があの方に届くまで、俺達の想いを繋げてやらぁ』
そんな報告を受けて、止まぬ歌に怯えた麗羽と斗詩は……禁ずるのを諦めた。
これ以上厳しくするなら殺すしかない。しかし、殺してしまえばどうなるか、そんなモノは分かり切っていた。
歌はもう止まらない。止まるはずがない。どの街でも、民がその歌を歌っていた。
その歌に宿る想いは感謝だった。
“自分には何も出来ないけれど、せめて言葉で伝えたい”
その歌に宿る想いは願いだった。
“何か一つでも力になれたなら、それはどれだけ幸せでしょう”
その歌に宿る想いは祈りだった。
“愛してくれた感謝を込めて、あなたの幸せを祈っていいですか”
その歌の詩は、民を愛した王に向ける歌。優しい優しいその歌は、愛して守ってくれた王に伝えたい想いのカタチ。
無力な自分達でも出来る事は無いのかと、訴えかける願いの心。
幽州の民は、白蓮の為にこの歌を歌い続けた。
彼の河北動乱では、戦っていた王を助ける為に、その歌に励まされて奮い立った者達も居た。内部反乱は民の手から始まり、幾多の義勇軍が結成されていた。
それを最後に止めたのは……皮肉にも、王と共に戦った兵士達。主の為を謳うかに聞こえる歌を耳に入れつつも、涙を流しながら、奮い立った者達に語った。
『片腕が命を賭けて白馬の王を助けたのはこの家を守る為である。命を散らすな。我らの王が帰還するその時まで』
故に、彼らは歌う事をやめない。
たった一つの歌が、この大地を変えていた。誰も予想出来るはずもない程に強固な絆で結ばれた、“彼女の為だけ”の大地へと。
七乃が着いた時点ではもはや手遅れだった。むしろこんな中でも殺されなかった麗羽こそ、評価していいのかもしれない。
暗殺の類は多々あったらしいが、それも袁家の財力を以ってすれば事前に防げる。
南皮でのように街に出ること無く、麗羽はじっくりと、未来の為に内部改革のみを進めていたのだ。
七乃は知らない。黄巾の乱が起こったのは歌があったからとは知らない。
あの大乱の中心に位置していたのは三人の姉妹。今は魏に所属する役満姉妹である。
彼女達は特殊な書物から人心掌握術に舞台知識、そして妖術を手に入れた……が、それは名を上げる力を伸ばすに至った切片に過ぎない。
彼女達に紡がれる詩は想いを広げる力を秘めていた。甘く響く天与の歌声は心を奮わせるナニカを宿していた。
誰にも知られていない事だが、役満姉妹が特殊な書物を得たのは、歌によって人の心に想いを響かせたからだった。
背の高い一人の男が心打たれて、盗んだ書物を手渡したのが事の始まり。
彼女達三人は、確かに才を持っていたのだ。人の心を歌で動かすという稀有な才能を。
なればこそ、現代でも到底有り得ない技術を要した三姉妹が、何十万という民を奮い立たせ、大陸全土を巻き込み、乱世の始まりを起こせたのだ。
その力が、たった一つの大地に与えられる……それがどれだけ恐ろしい事か。
華琳は、その力を正確に見極め、理解を置いた上で使った。間違いなく、黒麒麟を手に入れる為だけに、彼女は全ての力を使ったのだ……黒麒麟を手に入れられなければ、この黄巾の乱よりも濃密に出来上がった大地が敵になっていたにも関わらず。
ただ、現在の状況は華琳の予測を越えている。他のどの地でもこのような事にはならない。白蓮が治めていた土地だからこそ、この幽州の大地は歌う事を止めない。
そして今の情報を耳に入れて、この地の大切さを知る天才軍師が……華琳の張っていた糸を利用しないはずがあろうか。
愛しい男が本当は帰りたかった家を、守らないはずがあろうか。
七乃は二人の近衛兵を引き連れ城を出て、一つの店に向かった。
その店の店主とは話した事がある。建業に支店を建てる事に七乃は許可を出していた。しかし今、店主は居ない。一号店よりも二号店に重きを置いているのは……この地の主が変わったからだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様!」
ポニーテールに括られた髪、活気あふれる声と営業スマイルは変わらない。この店のモノだけは、誰にも憎しみを向けない。そういった風に教育されている。
料理を楽しむお客様は平等に主。それが二号店を立ててから後、娘娘で働くモノに敷かれた鉄の掟であった。
「これはこれは張勲様、いらっしゃいませ」
笑顔で迎えてくれる副店主の瞳にも憎悪の影はなく、七乃はほっと息を付いた。最近はこの店だけが、七乃にとって心の潤いだった。
手が出ない程に高いモノだけでなく、食べやすいモノも置いている。それでも高い事に変わりは無いが……殺気を一つも感じない場所、そして間諜も斥候も隠密も気にしないでいい時間というのは、七乃にとっては金を払ってでも欲しかった。
「予約の御方は“夜天の間”でお待ちです。ただ……」
「分かってますよぉ。どうぞ」
「では、失礼致します」
給仕はおしとやかに礼をしつつ、身体検査を念入りに始める。そこいらの男よりも武力が高い給仕ばかりを雇っているため、七乃では逆らえるはずも無く。近衛兵も同じように、他の給仕に身体検査を行われ始めた。
この店は……街自体の利益率から言っても外せない大きな力。権力を以って無理やり潰しても構わないが、それを判断するのは七乃ではない。よって、潰していない限りは、この地に暮らしている限り、習わしに従わなければならない。
店長を知らぬ人が聞けば不可解極まる店である。政治利用される事を嫌うが、為政者が集うなら政治事の話が出るは詮無き為に、料理をおいしく食べた後なら構わないという決まりがあるのだから。
さらには、武器の持ち込みは全面禁止、暗殺の類は給仕達が命を賭けて阻止し、護衛を入れるなら許可を得て行うべし……これほど異質な店は他にない。
今回は特別に、共に食事をする相手が相手なだけに、店側からこうした介入が施されていた。
「失礼致しました」
給仕がお辞儀を一つ。何も武器の類がないと示されて、ほっと副店主も安堵を一つ。
「では、ご案内致します」
漸く案内されたのは一つの部屋。この店の店主の友である三人が願いを紡いだ……今は夜天の間と呼ばれる部屋であった。
部屋の前には二人、兵士が並んでいた。青では無く、緑の軽装。目に入った途端、七乃に侍っていた兵士達の表情が絶望に染まった。
その兵士達はわざわざ見せつけるように袖をまくり上げていた。傷だらけの腕には黒の布が巻かれていた。そして首から下げられているのは……黒の嘶き。どの部隊の兵士であるのか、それだけで直ぐに理解出来た。
――こんな小さな所にまで、心理戦を仕掛けてくるんですか……
兵士達が怯えるのも無理は無い。もはや袁術軍は、ソレと向かい合うだけで士気が挫かれる。彼らに与えられた恐怖は、心の奥底に根付いてしまっている。
恐ろしい、と七乃は思う。
今から話す相手は、自分では本来、太刀打ちできない弁舌を持つ使者。それとたった一人で相対するなど……いつもなら絶対にしない。
相手が過去の情報通りであれば良かった。怯えが色濃い、引っ込み思案な少女であれば良かった。決して前に出ようとしない、次席で甘んじていた雛ならば問題無かった。
儚い願いだ。自分が相対するのは、もう雛に非ず。
大切な愛しい少女の笑顔を頭に浮かべた。七乃が遣り切らなければ、美羽は……。
会う前から気圧されては敵の羽に焼かれると、意思を固めた。
七乃達に気付いた敵の兵士達が先に部屋に入った。一寸だけ向けられた彼らの鋭い瞳には……抑え切れない程の憎しみが溢れていた。殺せるなら今すぐにでも殺したい、そう表すかのように。
七乃はニコニコ笑顔を崩さずに、その視線を跳ね返す。内心で震えながら。
「では、今回は“会談こぉす”につき、随時料理を運んで参ります故、何か追加で注文する際はお申し付けくださいませ」
ぺこり、とお辞儀をして副店主が下がった。
ゆっくりと、七乃は歩みを進める。引き戸を開けて入った部屋の中、一人の少女が慎ましく座っていた。
三角帽子に蒼い髪、有名な私塾の衣服は智者の証明。彼女は立ち上がり、優しい微笑みを七乃に向けて来た。
「ふふっ、初めまして。急にお呼び出しして申し訳ありません。私は曹操軍よりの使者、鳳士元と申します」
ニコッと笑いかけてきた顔は愛くるしいはずなのに
紡がれる声は甘いモノであるはずなのに
その翡翠の瞳に、七乃はなんら暖かさを感じ取れなかった……鏡に映る、自分と同様に。
「初めまして♪ 袁家より幽州を任されている張勲と申します」
ニコニコ笑顔で返しても、一筋も少女の瞳はブレなかった。
彼らが願いを紡いだ部屋の中、たった一人の幸せだけを願う者達は
脳髄の隅々にまで、大切なモノの為の手札を並べ行く。
~集え白馬に~
白馬が駆ける。ただ駆ける。
今尚この地を守らんとして、主が変わろうとも駆け続けた。
我らの主はこの地を守れと最後に命じた。破ろうとも思わなかった。
外敵は既に押しのけたが、彼女は……もういない。それでも我らは守り続ける。
しかし……国境付近のこの街で、大酒を飲んでいた男達の話が、耳に残って仕方ない。
“集え白馬に”
命を繋いだ主は、城中に響き渡る声で泣き叫んだという。
泥濘の中を足掻く悔しさよりも、家と家族を失った事に絶望し、黒の胸で涙を流し続けたという。
黒は主を先に逃がして、自分は命を賭けたという。
黒の身体は……白馬の片腕と同じ策を以って、黒の命を繋いだという。
“集え白馬に”
そして白の友である黒は、再び我らが主の代わりに戦っているという。
――なんと不甲斐無い。
頭に歌が響いて心が燃える。
自分達は、主の命に従っている。それこそが忠義の証明となるのだ。なのになんだ、この無様さは……。
“集え白馬に”
主は泣いたぞ。
主は傷ついたぞ。
主はこの地を追われたぞ。
『皆の事が大好きだ』
赤い髪を揺らし、照れていながらも満面の笑みで彼女は言った。
――あの笑顔を……俺達は守れなかったんだぞ。
悔しさが沸き立ち、憎しみが燃え上がる。
幾月幾年の時を越え、見知った顔はまだ多く。
誰であれ、黒が戦っているのは義の為であると言った。
我らが名はなんぞや。
彼女と共に、謳われた名はなんぞ。
故に、一人、また一人と脚を向けるは必然であった。
心を抑えるまでも無い。我らは義に従うのも命であるのだ。
天より与えられし好機なり。行く先の名が呼んでいる。
なればこそ……“集え白馬に”
我らが名は白馬義従。
白馬の王が義に従いし勇者なり。
今こそ、主の“敵”を打ち滅ぼしに向かわん。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
幽州での出来事前編。
彼も一緒に守りたかった家のお話。
次は後編、七乃さんVS雛里ちゃん、です。
ではまた
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