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乱世の確率事象改変

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想い育てよ秋の蘭

 ゆらゆら、ゆらゆらと水面が揺れる。身体もつられて揺らり揺らり。
 その場に居る誰しもの顔が蒼い。船に乗るのはあまりしてこなかった者達である。水上に出慣れている漁師ではあるまいし、こうして酔ってしまうのも詮無きかな。

「なぁ、朔にゃん。ホンマにええんやろか。勝手にこないな動きしてしもて」

 尋ねる少女はたわわな胸を揺らして振り返り、独特の関西弁で疑問を向ける。まだ酔い始めであるのか、僅かだが彼女の顔も蒼い。

「うっ、だ、大丈夫、です。ふぇっ……官渡で遊ばせておく、なんて勿体無いですから。元より秋兄様は、あなたに“船戦の問題点を理解させたい”とおっしゃってました。えぅっ……何を狙ってかは、捻じ曲げるだけ、と詳しく教えてくれませんでしたが」

 吐きそうになりながら、所々で口を小さな掌で抑え、彼女も真っ青な顔で言葉を紡ぐ。
 揺れが酷い。本当に、こんな状態で戦える者達が不思議なくらいだった。真桜は水上で戦うとはどんな状態なのかと、周りと自分の把握を行いつつ、頭に叩き込んで行く。通常ならば船での戦闘を想定してだが、彼がその程度のありきたりな答えを出すか、と自問自答すれば否。
 対岸が見えぬ程の大河で、彼女達は船の上。まだ目的地は先の先。

「う、うめぼし」

 ハッとして、すっかり忘れていた、と小瓶の中から赤い実を一つ取り出す。迷信だし気休め程度の気付けにしかならん、と彼が言ったモノ。船も使うかもしれないからと、準備期間の間に店長の店から取り寄せて置いたのだ。
 彼に狂信している朔夜からすれば、迷信だとしても自己暗示で落ち着く様子。

「――――――っ」

 口に入れた途端にぎゅっと目を瞑る朔夜。その姿に、周りの兵士達も幾分か心が和む。

「それ、よう食えるなぁ」
「酸っぱい、ですけどおいしいんです。“おにぎり”に入れれば保存効果も少しばかり期待できるらしく、何より、お米がおいしくなります」

 娘々での経験は彼女の頭にもしっかりと入っていた。
 雑学に頷き、彼女に倣ってひょいと一つ摘まんで口に入れる。刺激的な酸っぱさに、真桜も思わず眉を顰めた。
 予想よりもさらに酸っぱかったからか、頭が少しばかり晴れた気がした。

「で? どうするんや?」
「まだ、です。船の速度から換算するに、此処ではありません。漁船を借り受けてはいますが、小舟を出して確認するのもまだです」
「……火矢とか来たらどないする?」
「水に浸した、筵を被せれば消せます。何より、この小型投石器で油瓶を投げれば、こちらは余り近付かず、被害は軽微に抑えられます。それに遠距離兵器の使用を匂わせて、敵全ての思考を鈍重に縛り付けるのが本当の狙いです。ある程度逃げた後、投石器は崩して河に沈めます」

 指差した先にあるのは真桜の発明品。大型では無く小型が三つ程。
 兵器の特性上、秋斗が覚えている限りの数学や物理学を二人共習い始めているのだが、この時代では辿り着けない知識を手に入れた天才軍師と天才発明家の組み合わせ程恐ろしいモノは無い。

「勿体ない……ま、しゃあないか。射程は問題あらへんけど、方向が難しいんとちゃう?」
「それも問題ないかと。敵は兵数がこちらに対して多すぎます。それ程の人員と物資を運ぶには、船の量は自然と増える。ばらけさせれば狙われやすいので、纏めるのが得策。だから、船団として停泊している船を一つだけでも燃やせばいいです。水際は風が変わり易く火は伝搬します。燃えてる船は使えず、追撃は激しいモノにはならない。私達たった百の行動で、延津の戦況は動かざるを得なくなるでしょう」

 朔夜の瞳は冷たく輝く。卑怯とは言うまい。既に宣戦布告は為されていると言わんばかり。
 何故か決戦主体の戦ばかりが行われるこの世界で、しかも不意打ちやだまし討ちを好まない華琳の軍で、彼女は今回の搦め手をやってのけるつもりだった。

「極少数での奇襲っちゅうわけか」
「たかだが百人、されども百人、です。真桜さんが、居てこそですよ?」

 褒められて照れる真桜。ぽりぽりと頭を掻いて、彼女の言葉の続きに耳を立てた。 

「霞さんを、延津に動かせたなら問題はありませんでしたが、まだ時期尚早な為に、風ちゃんはそれをしないでしょう。延津に対する、増援だけを抑えてくれればいいんです」

 全てを読み取っているような予測に、真桜は寒気が来る。

「延津への増援?」
「白馬の兵数差、こちらの狙い、あちらの狙い。全ての糸は、一つに向かっていますから、逆から手繰るだけで読み取れます。あちらは神速の、動きを確定させられたら最低線で、延津を取れれば予定以上。どの時期で敵兵力を、下げつつ退くかだけが私達の課題です」

 相変わらず説明されても分からない。彼女もそれ以上は話す気もないらしい。

「ふふ……火炎瓶“ぷらす”投石器“いこーる”――――」

 楽しげな表情は子供のよう。
 まだ戦の醜悪さを一筋たりとも経験していないからそんな顔が出来るのだ。人の死に心も痛まず、戦を冷たい論理だけでしか見られないのだ。
 朔夜を見て、真桜は危うさを覚えて、そう考えた。

――なぁ、兄やん。この子……このまま成長させてええんやろか?

 自分からは言わない。言ってはならない。優しく愛らしいが、彼女がどういった思考をするのかを、真桜は分かっていた。

――朔にゃんは兄やんがどう変わるかによってしか、影響与えられへんもんなぁ。

 ため息を一つ。真桜は背を向けて兵達に指示を出そうとして……

「真桜さん」

 愛らしい声に呼び止められる。

「この戦は華琳様好みとか、そうでないかとか、卑怯とか卑怯じゃないかとか、そんなモノは下らないガラクタです。私達に任せた時点で華琳様の責ではありますが、失敗すれば死ぬか頸が飛び、成功しても不満ならば殺してくれて構いません……その程度の覇王なら、秋兄様と私が仕える価値などありません。
 狡猾にして卑賤ならず、一人遥か高みに居るからこそ、華琳様は覇王に相応しい。
 それに、こんな“些末事”を気にしてはダメです。最終結果で、示すモノの方があなた方の受け入れがたいモノですから」

 正しく、凍りついた。恐ろしくて振り向くことも出来なかった。何が彼女にそこまでさせるのか、終ぞ分からなかった。
 続いたのは哀しげな声。

「でも、どうか秋兄様を……嫌いにならないでくださいね」

 耳に涼しく響く言葉の意味を、朔夜と秋斗の思惑を読み取れない真桜には分かり得なかった。
 ただ、彼に狂信している少女への恐怖に何処か痛々しさを感じてしまう。

「秋兄様は、黒き大徳、なんですよ」

 小さく少女が零した声は、波の音に攫われて誰の耳にも届くことは無い。





 †





 許緒――――真名を季衣。
 天心万蘭な性格からか、曹操軍内部でも皆に可愛がられるも、春蘭の妹分な扱いを受けやすい彼女は、戦前に一つ、共に戦う蒼弓から話されていた事がある。

「徐晃の服の下を見たことがあるか?」

 馬を共に進めている時に、唐突に投げかけられた問いかけ。
 少しマセている流琉ならば、その言い方に顔を真っ赤にして俯いてしまっただろう。男の裸を見たことがあるか、と問うているに等しいのだから詮無きかな。季衣は気付かず、首を捻るだけであったが。
 秋蘭の問いかけの意味は違う。
 彼の袖の下は見たことがあった。凪のように目立つ傷は無かったが、古参の兵士と同じく、傷が幾多も走る長い腕。大きい傷も、小さい傷も見受けられる手。

――兵士に比べると細っこい身体の何処からあんな力が出るんだろう。

 お前が言うなと誰しもがツッコミを入れるような事を考えて首を捻る季衣に対して、秋蘭はくつくつと喉を鳴らした。

「腕は傷だらけでしたけど……どうかしたんですか?」
「うむ、腕は捲ったりするから見えるのも当然か……朝早く、お前達が起きる前に、姉者や霞と毎日のように鍛錬を重ねているのだがな……」

 含みのある言い方。まだ先は続けられず、興味津々と言った様子で秋蘭を見つめた。
 遠い目をして空を見つめていた秋蘭が、漸く視線を落として口を開く。

「あいつはどれだけ暑くても服を脱がないから気付かなかったが……この前、姉者が暑苦しいから脱げと引っ張り上げていたので見えてしまったのだ。姉者と霞はさして驚かずに何事もないように接していたが、私は目を疑った。
 あいつの服の下は……腕の傷など話にならん程に傷だらけだ。背中なんぞはより凄まじい。深い傷が幾つかと、無数の細かい傷で埋め尽くされている。くく、あいつが戦い始めたのはお前と同時期なのに、だ」
「それって……」
「戦傷もあるだろう。しかし、あいつのは違う。
 姉者と霞が驚かなかったのは……徐晃隊の戦い方を直接見ていたかららしい」

 徐州で共に戦っていた彼らを思い出す。
 死ぬときに必ず笑顔を浮かべる彼ら。一人でも多くを殺しに向かう彼ら。必ず十人以下で武将を抑えに向かう彼ら。
 どうすればあのような戦い方が出来るのか、季衣としては疑問があった。自ら望んで死にに向かうような彼らを見て、哀しくもあった。彼女の純粋な目には、余りに凄惨な戦い方に見えていた。
 まだ彼女は彼らの誇りを理解するには早い。力の足りない者達の想いを理解するにも、彼女の武力は高すぎる。

「そういえば季衣は黄巾の時にあいつらだけの訓練を見たことがなかったか。徐晃隊の練兵方法は様々らしいが、黄巾の時から変わらず繰り返されているモノがある。それが対徐晃の集団練兵。毎日毎日、抜き身の剣や槍で……あいつを殺しに掛かる無茶苦茶な練兵だ」
「に、兄ちゃんを殺しに、ですか!?」
「ああ。だからあいつの身体には“徐晃隊が付けた傷”の方が多いんだ。縦列、偃月、円陣、囲まれようとなんだろうと戦えるように、徐晃は血みどろの鍛錬を積んでいた。その証が傷だらけの身体、というわけだ。記憶を失って傷だらけの意味を知って、あいつが何を思ったかは教えてくれないが」

 どんなだろうか、と想像しようとしてみるも出来ない。曹操軍に来てからはそこまで苛烈な事をしていない為に、どれだけ異質な訓練なのかも分からなかった。
 秋蘭はまた、喉を鳴らした。

「徐晃隊の兵士も同じように傷だらけだろう。死兵の生き残りとはそういうモノだ。自身が傷つくのも恐れず、ただ敵を多く殺す為に前へ前へ。恐怖など感じない。
 練度が違うと思うが、徐晃隊と張コウ隊が同じような輩なら、お前にとって一番戦い辛い相手となる」

 真剣な眼差しは季衣に何を伝えるか。
 並べた馬で、優しく頭を撫でた。

「大切なモノを守る意思は力を生むが、季衣は容易に命を捨てるなよ。徐晃隊や黒麒麟、張コウのようにだけはなってはダメだ。
 お前が最期まで守り抜くモノはな、華琳様でなければならない」
「でも今は秋蘭様ですよ?」
「ふふ、次の戦場では皆、死が身近にあるだろう。だからこそお前は思い切り戦いながらも死んではならん。生き抜く事だけ頭に入れるのだ。それが私を守る事に繋がる」
「どうしてですか?」

 質問は成長を促す。それを良く理解している秋蘭は、にっこりとほほ笑んだ。
 誇らしげで、自信あふれるその笑みを、季衣は心の中に刻み込む。続けられた言葉は、彼女が将として持つべき、一番大事なモノであった。

「私の部下達はあの姉者を守る事が出来るのだぞ? 姉者は夏侯淵隊が後ろに侍る時は絶対に振り向かん。だから、お前の後ろに立つ敵はいない。その背中を兵士達に預けてやれ」

 共に戦う兵士達にそこまでの信頼を向けれるモノは少ない。飛び抜けた武力を持つ彼女達だからこそ、実の所どうしても背中まで警戒を向けてしまう。流琉が居るからこそ安心して前だけを見ていた季衣に、秋蘭はそのやり方を学ばせようとしていた。
 曹操軍に於いて出来るのは、春蘭と秋蘭、霞に……今は居ない黒麒麟だけ。
 研ぎ澄まされた本物の部隊の兵というモノは、命を賭してでも彼女達の背中を守るのだ。
 ただ、自分が投げた問いかけの答えでは無くて、季衣はまた首を傾げた。

「でも、秋蘭様はどうするんですか?」

 ふ……と小さく息を吐いた秋蘭は目を瞑る。

「問題ない。少し異色な仕事場になるが……張コウだけでは我らには勝てんよ」

 ゆっくりと開いた目には、春蘭に似た獰猛な輝きが宿っていた。
 自信が燃えるその光は、季衣の心に何よりの安心と信頼を齎すモノであった。





 武器を振りながら戦前の事を思い出していた季衣は、戦況を見て理解に至る。

――ボクが引きつける事が出来たら秋蘭様の一騎打ちは邪魔されないし、この配置なら秋蘭様に万が一の事は起こりにくい。

 部隊を扱う時は兵が纏まっているのが通常なのだが、今回は全く違った。
 大量に射ていた矢は部隊個人が常備しているモノでなく運び込まれたモノ。未だ夏侯淵隊は武器を失ってはいない。
 その為、秋蘭は敢えて部隊をばらけさせ、兵士一人一人が個として戦えるようにしていた。それは奇しくも、明と夕の策と似たモノ。乱戦の様相を組み上げる事によって戦場を広げたのだ。
 曹操軍の陣容は秋蘭が居るこの場所だけ後方がぽっかりと空いていた。張コウ隊だけと戦えるように、稟からそういった陣容が組まれていた、という事。
 弓兵や弩兵は近距離では余り力を発揮しない。剣、戟、槍の類を面と向かって相手取るには不足なのは自明の理。
 しかしこうして場を広げたならば、近づいてくる敵兵を狙う時間が出来る。間が出来れば出来るだけ直射出来る兵士が増える。多方向からの矢には、如何に死兵の群れであろうと対応しきれない。
 稟は秋蘭の部隊の精強さに賭けた。夕は明の部隊の狂気に賭けた。戦術の選択は同じにして、どちらも被害が大きくなるモノでもある。
 ただし、袁家側の不可測として季衣が居た。
 彼女の武器は“岩打武反魔”と名付けられた鎖付きの大きなフレイル。あらゆる距離に対応できる重量武器であり、春蘭と共に居るから気付く者が居なかったが、流琉と同じく遠近両方の武器な為、実は秋蘭の部隊と非常に相性が良い。

「でぇぇぇいっ!」

 気合一発。掛け声と共に放たれた鉄球は纏まって矢を防ぐ兵士達を粉砕した。
 血が弾ける。肉が潰れる嫌な音が、その武器の威力を物語っていた。
 纏まれば季衣が、ばらければ夏侯淵隊が、そうしてこの戦場の優位をもぎ取りに行く。季衣の身体が一つなだけに、どちらも数を減らしてしまうのは当然ではあるが、張コウ隊の方が被害は甚大であった。
 されども、季衣の背には寒気が走っていた。
 一人死のうが二人死のうが、矢に射られようが剣で切り裂かれようが殺しに向かう敵兵。ぎらぎらと輝く瞳はまるでケモノそのモノ。否、ケモノよりも恐ろしい何か。武将の力に恐れず突き進んで、死に怯えずに敵兵に向かって行く狂気は、心優しい季衣が直視するには恐ろしかった。
 自分に近付いてくる兵は居なかった。張コウ隊は季衣を最初から相手にしていない。一人でも多く兵士を殺す。それだけの為に動いていた。

 接敵を許してしまい、腰から抜いた剣を突き出した夏侯淵隊の兵士は、ずぶり、と敵の身体に鉄が突き刺さる感触を受ける中で、時間がゆっくりと進む感覚に襲われる。
 目に入ったのは笑みだった。不敵で、残忍で、残酷な笑みだった。
 ズブズブ、ズブズブと進んでくるソレは、血を口の端から垂らしながら剣を振るってきた。それがその兵士の最期に見た光景。
 あちこちで、近付かれた曹操軍の兵士達は死んでいく。ばらけていると言っても安全な場所などありはしない。
 槍を投げられる事もあった、剣を投げられる事もあった、地に伏した死体を抱きかかえ盾にして突っ込んでくるモノも居た。夏侯淵隊の弓や弩を拾って射撃してくるモノも居た。
 使えるモノを全て使う血みどろの戦は、張コウ隊の本分と言っていい。徐晃隊のような連携とは全く違う。ただ純粋に、人の殺し方をその場で考えて個人個人で使ってくるのだ。
 時間が経てば経つ程にそこかしこで人が死ぬ。必死になった賊程度の相手では無い。狂気持ちし兵士達の乱戦に初めて身を置いた季衣の身体に震えが起こった。鉄球を引きつけるのに少しばかりもたついて、彼女はギリと歯を噛みしめた。

――ダメ、ダメだっ! こんなんじゃボクは守れない。みんな、みんな何かの為に戦ってるんだ! 守りの御旗になれるのは、この場所ではボクなんだ!

 膝に力を込めて、大地を踏みしめた。理解出来ない相手への恐怖を追いやれるように、と。
 涙が出そうだった。叫び出したかった。怖くてしかたなかった。
 初めから曹操軍に所属できた事は、そして華琳の親衛隊になれた事は、彼女にとってある意味不幸だったのかもしれない。
 戦端の兵士達がどのように死ぬかも、混乱と狂気が支配する戦場がどれほど醜悪かも、何も知らずに戦って来たのだから。
 覇王という希代の天才、大剣や蒼弓、覇の王佐……才ある者達に守られて来たのだから、心の底に甘えがあったのだろう。
 しかし、彼女は乱世で戦うと決めている。戦い抜いて、この乱世を終わらせる助けをしようと決めていた。
 此処に来る前、里帰りした時に親は泣いた、村の人も泣いた……それでも、もう人が戦で傷つかなくていい世の中を曹操軍の皆で作ると決めたのだ。
 だから……

「だから……ボクが怖がっちゃいけないんだ。そうだよね、秋蘭様?」

 赤と蒼が舞い踊る場所をチラと一寸だけ見やって言葉を零した。
 自分が戦わなければ彼女を守れない。それだけは……絶対に嫌だった。

「みんなっ、後ろは任せるよっ!」

 振り向かずに声を上げれば、応、とそこかしこから返答が上がった。
 男の低い声であるが、背中を推された気がした。いつも共に戦っていた幼馴染が傍に居るような感覚が湧いてきた。
 行ける行ける……心の中で呟いて、大きく息を吸う。
 彼女が参考にするのは誰か。彼女が最も長く見てきたのは誰か。戦場でそうあれかしと願う姿は誰のモノか。
 ふっと短く息を付く。何度も、何度も呼気を往復させた。断続的に繰り返される呼吸で意識を引き上げた。目の前で繰り広げられる死闘をそのまま、心の中身を覗き込む。
 渦巻く感情は幾多。ただし、真っ直ぐに理解出来るモノばかり。

 嬉しいのがあった。尊敬する大剣に少しでも近付けそうな気がして。
 悔しいのがあった。季衣がこれからするのは嫌いな女の子が先に理解していた事でもあったから。

“その跳躍に逃げ場無し”

 誰かが謳う燕の話。逃げる敵であろうとも、容赦なく屠るその姿。戦場が収束するまで舞い続ける一人の少女だからこそ、そのように謳われる話が出来た。何故、と思う間もなく理解する。
 その少女は、戦場が終わるまで敵が何をするか分からない、と感覚的に知っていたのだと初めて気付く。
 季衣は親衛隊として、向かい来る敵をずっと屠ってきた。敵が逃げれば追わず、華琳に命じられるまま、自分に与えられた仕事をこなしてきた。それは余りに安穏としたモノでは無かろうか。

――ボクの仕事は守る事だ。村に居た時からそうだった。

 されどもこの戦場では、否、これから先も、そんな甘い事は許されない。彼女が成長したいというのなら。

――兄ちゃんが来てから親衛隊の皆は変わった。華琳様と同じようにボクの事でさえ守りたい……そんな風に皆強くなろうとしてる。

 抗う心が生まれる。変わりたいと思った。変わるなら、どう変わる。

――お前と同じことでもやってやるさ、“ちびっこ”。でもボクはお前じゃない。兄ちゃんたちみたいにもならない。ボクは……

 戦場は平等で、醜悪でしかない。ならば誰かを守る為にこの武を振るわなければならない。戦場を支配する絶対的なモノにならなければならない。それこそが“敬愛する彼女と同じく”誰かを守る事に繋がるのだ。

「迷わない、怖がらない、逃げない、躊躇わないっ! ボクは春蘭様みたいになるんだからっ……ううんっ……いつか越える! 目標なんだっ!」

 声と同時、鎖を回して一凪。横撃は兵を弾き飛ばし、多くの敵を巻き込んだ。今までに無い一撃は重さから来る音が違う。飛ばした方向は紅揚羽に向けて。距離は足りなかったが、一騎打ちを邪魔する行いにも見えるソレは、敵の意識を数瞬だけ引きつけた。
 一人でも多く自分に引きつける為に思考を回す……までも無く、彼女は本能の赴くまま、叫びを上げた。

「ボクの名はっ……曹孟徳親衛隊が双璧、許緒! 逃がしてなんかやんないからっ! 身体が小さいからって舐めるなよ!」

 空気が変わる。
 口上と言うには幼かったが、それでも僅かに変えたのだ。将のように名乗りを上げて、数十人かの張コウ隊の意識を、気にせずともよいモノから倒すべきモノへと。
 幾多の死兵の瞳を向けられても、もう動じる事は無かった。これから向けられる凶刃と戦うのは、一人では無かったからか……それとも、傷だらけになっても死を恐れずに向かい行く、張コウ隊とは別種の笑みを浮かべる彼らを知っていたからか。
 後ろで兵士達は矢を射ながら、彼女を思って微笑みを浮かべていた。背に宿る闘気が、自分達の将が大切にしている覇王の大剣に何処か似ていると感じたから。

 そうして少女は人知れず、武の指標への階段を一段上り行く。




 †




「ふむ……秋蘭を張コウが縛り付けて、凪と沙和を乱戦のごたごたで討ち取る心算、ですか」

 一段高い所から戦場を見渡す稟は独りごちる。
 主も居ない。共に読み解く友も同僚もいない。華琳の指示が全く無い状態で軍を掌握するのは、彼女にとってこれが初めて。徐州では孫策軍の軍師も居た為、一人きりで戦場を仕切るのも初めて。
 元より戦は徐州でしか経験がない。袁紹軍、孫策軍、袁術軍と多種多様な敵とぶつかりはしたが、それでも敵軍師田豊に比べれば、余りに経験として積み上げられた実力が薄い。
 別段気にしていないような素振りを見せているが、彼女は内心で焦っていた。

――弱卒だと油断した所を真正面から食い破る。それも軍師の思惑が介入しきれないように乱戦にもつれ込ませる事によって……これが田豊ですか。桂花が危険視するのも分かります。既存の兵法をまるで無視しているのに、心理掌握で戦場の有利をもぎ取る事に長けている。

 既存の兵法が通用しないド素人の戦は何が起こるか分からない。そのくせ、後背では虎視眈々と部隊を控えさせて時機を伺ってもいる。
 限定された将の数と兵数の利があってこそ出来る戦法。つまり、この様相はこの場でしか起こり得ないモノ。
 凪の武力と沙和の部隊指揮で戦のカタチを為そうとしていたが、顔良の突貫でそれすら覆された。
 寡兵の曹操軍としては、中央はもはや手の付けようがない。将の力量に任せるのみであった。
 対して、秋蘭の方は稟の思惑通りとなっていた。一つは相手の、もう一つは自分の描いた図になったわけだ。
 しかし、どうしても足を引っ張るのが兵数。見れば、強力な将が居ない場所が圧され始め、あまり時間を掛けるのは良くないとはっきり読み取れた。

――せめてどちらか。顔良の敗北か、張コウの捕獲もしくは敗走があれば場が覆るのですが。

 じわり、と手に汗が湧いた。
 将を信頼しているが、軍師としてそれが出来ない場合も彼女は頭に於いているが故に。
 誰かが欠ければ士気は崩れるでなく跳ね上がるだろう。ただ、同じような狂気に身を落として勝てるかと言われれば否。そういった戦い方はあちらに一日の長があるのは明白。
 自分が動くか、とも考えたがそれは出来ない。俯瞰する場を離れてしまえば戦術指揮さえ滞る。そんな状態に包囲を狙って動かれれば……まず物量差で負けてしまう。
 だからじっくりと、こうして後背で動かないのが彼女の仕事。ある種の読み合いであり、夕への牽制でもある。
 ふと、そういえばと思い至る事があった。
 遠く白馬の戦で、“敵がこちらを優先した場合”の動き方。延津の兵数を多くしたのはその意味もある。白馬と延津を繋ぐ中間地点には、何があるのか。

――ダメですね、弱気になっては。延津は我らだけで守り切るのが一番いいカタチ。霞が動くにはまだ時期尚早。

 手札にある神速を使う時機はまだ遠い。そう判断した時だ。

「郭嘉様……」

 一人の伝令に声を掛けられた。

「どうしましたか?」
「はっ。李典様より伝令。百の工作兵を連れて黄河の上流より下り、小型投石器を用いて敵の船を燃やしに向かう、と。司馬懿様を付けられているので問題は無い、とも」

 つらつらと説明が並ぶ。
 徐々に、徐々に彼女の顔から色が抜け落ちて行く。

「……分かりました」

 有り得ない事態でも、彼女は怯えを顔に出さず、兵を下がらせた。

――これは朔夜の独断? 真桜を失う事態となったらどうするのですかっ!

 舌打ちを一つ。
 曹操軍に於ける重要人物を簡単に扱う彼女に苛立ちが込み上げた。例えそれが成功したとして戦が有利になるとしても、近視眼的な行動を起こす彼女に傲慢さを感じた。
 落ち着け、落ち着けと言い聞かせても、腹の中は煮え切らない。
 ただ、ふと引っかかりを覚えた。
 連携が重要な戦での独断行動は軍の崩壊を呼ぶ。それが分からぬ朔夜でも無い。

――しかし真桜だけでなくどうして朔夜まで……あ。

 気付いた事柄は一つ。
 自分が安穏とした思考に駆られている。それだけ。誰かを失わないように行動して、後手後手に頭の行く先が回ってしまっているという一点。
 朔夜は提案するだけで、許可を出すのは誰であるか、と考えれば、彼に行き着くのは必至である。

 妹だと慕う少女を危険に晒す選択を、彼は是としたのだ。

 この戦は、彼の色に染まっている。彼が作り出したモノの戦になっていた。
 各々の小隊が最善を判断して動くあの部隊を、曹操軍全てを以って顕現させている。元よりそうなるはずだったのに、朔夜の命を秤に乗せる事で明確に表された。
 詠が霞の元に行ったのならば、振り分けられた部隊全てには軍師が付いている。だから、曹操軍は今、天才的な頭脳を即時対応だけに使ってもいい。

「それでも連携を取れると信頼しているのですね、彼は。いえ、皆を信頼して自分の判断で独自に動け、というわけですか。
 これは……黒麒麟の身体の在り方、なのでしょう。華琳様が作りたいと望んでいる、あの部隊と同じ……」

 恐ろしい、と思った。
 自分の力量のみが試される純粋な戦場でありながら、軍の様相を崩さないその方法が。同時に……そんなモノが作れるような人材が揃っているこの軍が。
 頭が違うとやり方も違う。此処に“黒麒麟と出会っていない華琳”が居たならば、白馬の戦も延津の戦も、全く違う様相になっていたに違いない。

――それでは今の華琳様が求める勝ち方には届き得ない、通常通りの、力で抑えるやり方になっていたはず。

 稟達軍師は、華琳の求めるモノに大体の予想を付けている。どんな勝ち方をすればそれが為せるか、判断した上で戦場を組み上げるのが曹操軍の軍師達。
 華琳が洛陽に向かったのは……それを確たるモノにする為だと理解していた。その一つが……黒麒麟の身体が如き、覇王の為だけの軍を構築する事。
 覇王は一つを求めるだけのモノに非ず。

――考えるな。目の前の戦を見なければ。

 頭を振って、思考を回す。
 真桜と朔夜が動く事によって変わるなら、自分はどう動けばいいのかと。この戦場を、どう動かせばいいのかと。
 能力への信頼はあった。彼女が時機を間違うはずがない。なら、そろそろ結果が出る頃だ。
 回る思考の中で、彼女は一つの解を選ぶ。

「陣容変化! 偃月陣に変化後、矢を放てっ! この戦だけで全てを使っても構いません!」

 引き込むカタチでは無く、真正面から抑えるカタチに持って行く。
 耐える時だ。時間との勝負であろう。ただ、それが出来ない軍でも無い。この軍は、彼女の主が信を置く部下達が、鍛えに鍛え上げてきた命が輝いているのだから。

「私も動きましょうか。郭嘉隊、于禁隊の後方に動けっ!」

 郭の旗が動く。血みどろの戦場となっているその場所に。

――こうすれば……田豊は動かざるを得ない。でも……いや、そちらは全てあなたに任せましたよ、秋蘭。 




 †




 地を打つ音は大きく、爆ぜる土は視界を遮る程に多い。
 大槌が舞う。重量武器であるのに軽々と振り回す敵将は……死に物狂いの表情で、今にも泣き出しそうにも見えていた。
 対して、相対しているのは、二人。
 二対一では卑怯では無いか……誰もがそう思う。けれども、この場は全く違うモノ。

 逆半月に切り取られた袁紹軍側は曹操軍の兵士が近寄れない程に空間が広い。しかし曹操軍側は、どこから狂った兵士が飛び出すのか分からない。それほどにこの場は乱れていた。
 乱戦が乱戦では無い。押されているのだ。烏合の衆と化した不可測が混ざり込んだ事によって。
 斗詩が率いている部隊は、敵将に辿り着くなり馬で無理矢理駆け抜けた。今はもう生きているのか、死んでいるのかも分からない。ただ空間を作り出すだけの為に、突撃を仕掛けたのだ。
 間が出来れば雑多な兵達が行く隙間が出来上がる。入り込む烏合の衆が、兵列や連携を重視する曹操軍をかき乱すに値する。後続で追いついてきた兵士達が斗詩を守るように陣形を組めば、自分達だけ普段の戦場として戦える。

 凪は今までにない、小さな、されども効果的な戦術の方法に衝撃を受けていた。命を数と見る処の話では無い。使い捨てのボロ雑巾の如く、誰が死のうと誰が生きようと構わないその方法が、自分達の軍とは余りにかけ離れていたから。
 沙和は、馬が来たと同時に間を開け、出来る限り後続に被害が及ばないようにした後、凪に合流して……心底震えた。
 群がる敵兵と斗詩を、凪はギリギリの線でいなしていたのだ。従う兵士達も戦ってはいるものの、余りに酷い状況であった。
 馬に乗ったままだと危うい、と判断した彼女は、直ぐに凪の隣に並んだ。
 二対一など生温い。これは二対多の、何が起こるかも分からない、粗雑で汚く、将の命令では収まり切らない戦場。味方の兵士に背中を預けるすら出来ないような、そんな戦場になってしまった。自分達の命を守る事だけを考える原初の舞台となってしまった。
 矢が射られる。斗詩を守る兵から、息を付けば矢が飛んでくる。誇りも何も無い。彼女達を殺す為だけの、醜悪な仕事場が此処だった。

「一騎打ちは出来ません。もうそんな状況じゃないですから」

 哀しげに表情を歪めて、斗詩は告げる。
 優しい人だとは知っている。連合の始まりで、彼女と猪々子が曹操軍に誘いの文を届けに来て、秋蘭と仲良さげに話してもいたのだ。
 しかし此処は命のやり取りを行う場。誇りを失った戦いで人の心も持てば、呆気なく死んでしまうのが道理。

「……あなたはその場所で満足ですか?」
「顔良さんは、戦場なんか嫌って分かってるの」

 攻撃を続けながらも、二人が選んだのは言葉の刃。
 優しい彼女を追い詰める為に、本心を零す。挑発と同じ効果を齎して、彼女の心を乱す為に。生き残る方策として選んだが、やるせなさから放った言葉でもあった。
 兵士の刃を掻い潜り、矢を弾き、大槌をいなし……幼馴染だからこそ出来る完全な連携によって、苦しいながらも彼女達には言葉を零す余裕が出てきた。
 グサリ、と斗詩の心に突き立つ。震えそうになりながら、斗詩は大槌をまた振るう。
 飛び退いて避けた二人には矢が放たれ、転げる事でどうにか避けた。

“其処を叩き潰せばいいのに”

 斗詩の頭に、彼女が囁いた気がした。当然、彼女ならばそれを選ぶであろう。
 分かっているのに出来ない。何度かそういった隙は見えていた。無慈悲に殺すだけなら、出来そうな瞬間が多々あった……が、斗詩はその都度、動けなかった。
 寒かった。動いて汗は出ているのに、体温が低く感じた。何よりも、心が冷たくてしかたなかった。

「……投降してください。してくれないなら……」

――殺します。

 最後の言葉がどうしても出て来ない。
 猪々子の為だ。麗羽の為だ。狂ってしまった彼女の為だ。悲劇で足掻いている少女の為だ。
 だというのに、自分の心が抗って、苦しくて、哀しかった。
 ああ、と息を付く。
 これが誇りなんだろう、と。
 考えながら、笑われるだろう、とも感じた。

『兵士だったら平気で殺す癖に、お前はなんで綺麗事なんざ考えてるのさ』

 抜けてきた曹操軍の兵士を殺すのには、なんら心が痛まなかった。随分前に割り切った、兵士というモノはそういう扱いだったから。
 だというのに、武将としての誇り持ちし彼女達を潰す事に躊躇いを感じている自分が居る。明に命の価値を説いた身であるのに、自分は敵を殺すのに躊躇いの線引きを持っていた。
 その矛盾が、彼女を苦しめる。
 同じ命なのに、何が違うのか……分からない。
 耳を塞ぎたくなるようなこの場所を、久しく一つの意味で怖いと感じた。殺される事に恐怖を感じたのは何度もある。しかしそれは……

――人を殺す事が……怖い。

 初めての賊討伐のように、恐ろしくて仕方なかった。

 一寸の隙と見て、地に伏せていた凪が俊足で近づいた。
 目を見開くよりも先に、長く戦場で戦った経験からか、斗詩は大槌を引き上げる。
 大きな音が鳴った。金属を打つ鈍い音と共に、全身に振動が伝わり、ふわり、と脚が浮く。
 気付いた時には後方に飛んでいた。衝撃を受けた自分の背中を受け止めてくれたのは……二人の兵士。

「ご無事ですか!?」

 見上げれば顔が良く見えた。精悍な顔つきをした兵士だった。妻も子供もいるかもしれない。そう思うと、斗詩は泣きそうになった。
 向かい来ようとする凪と沙和を、半月に囲っていた斗詩の部隊が押し込める。体術で吹き飛ばされても、双剣で切り捨てられても、彼女を守る為に命を張っていた。

――嗚呼、私は……守られてる。私の方が強いのに。

 いつも彼らは、弱々しい自分の号令について来てくれていた。
 いつも彼らは、無茶苦茶な猪々子の行動の補佐に不満も漏らさず従ってくれた。
 なのに、自分は……何をしている。

 立ち上がり、吐息を付いた。その瞳には迷いがなかった。怖さはあるが、それでも、彼らの為にもやらなければならない。自分がやらなければ、誰かが……哀しむ。

――それだけは嫌、だもん。私は文ちゃんと姫、ちょこちゃんと田ちゃんの為だけに戦うわけじゃない。ちょこちゃんみたいに、“彼ら”を軽く見ない。その為なら……捨てよう、この誇り。私は今から、武人を捨てる。この人達も守る為に。

 大槌を指し示した。冷えて行く頭と心の温度に反して、体はもう、冷たくなかった。乾いた喉から、叫びを紡ぐ。

「袁紹軍の勇者達よっ!」

 甲高い彼女の声は戦場に良く響く。どうか一人でも多くの耳に入ってと、願いを込めた。

「我らは生きているっ!」

 兵士の想いが何に向いているか、彼女は間違わない。

「生きよ、生きよ、生きよっ! この戦場、生を掴み取る為にこそある! 這いずろうが、のた打ち回ろうが、生きる為に戦えっ!」

 指揮を投げ捨てたに等しい口上は、周りの兵が持つ無駄な思考を削ぎ落す。等しく死が降りかかる戦場で、逃げ場は無いに等しい。
 ただ、後ろには逃げる場があるのだ。袁紹軍の隙間を縫えば、逃げ出せるかもしれない。弱卒たちはそう思う。
 それは……あまりに浅はかな考えではなかろうか。
 明は味方を殺して兵士を駆りたてた。その同類の夕が……明の抜けた場所で、思考の枷をきつく締めなおさない事など……ありはしない。
 斗詩は明と夕が怖い。だから、逃げ場が無いと正しく知っている。彼女が退き時を任せると言ったからには、“明と一緒に退く”しか有り得ないのだ。

 轟……と金色の軍の後背で音が上がった。
 風が渦巻く。熱風が吹き荒れた。こうなる事が、斗詩には分かり切っていた。
 大地が燃える。赤い壁が戦場に湧き立った。混乱と恐怖が……燃え上がった。彼女達の背には、逃げ場など……無い。
 斗詩が声を上げていたのは偶然であった。間にあって良かったと心底安堵する。
 不思議な事に、後は戦うだけだと、心が落ち着いていた。
 驚愕に支配される少女が二人。格好の餌食と思える。もう、迷いはなかった。

「私達は生きたい。だから……あなた達は死んでください」



 †



 黒髪の少女は一人、事も無さげに戦場を見やっていた。
 羊を追いたてる犬の役目を明は受け持った。それでも逃げ出そうとする羊には、柵が必要だ。
 中央の後背のみ、炎が燃える。脳髄の足りないケモノでは無く、結局は人なのだから、別に全てを燃やさなくともよいのだ。視界にちらつかせるだけでいい。そうすれば戦端の兵士達は前に思考を向けられる。

「郭嘉が中央に動いた。だから少し早める。斗詩は随分手古摺っているようだけど……読み通り。あなたの持つ甘さは此処で捨てて貰う。もちろん、あなたを殺すつもりなんか無い」

 明と同じモノを作ろうとは思っていない。斗詩を見殺しにするつもりも無かった。
 猪々子や麗羽の為に生き残るだろうと信じているから、心の甘さをある程度捨てさせつつ、自分のやり方を理解する武将として育て上げる心算であったのだ。
 明は兵を育てた。夕は……将を育てた。ただそれだけの為の舞台。
 味方の命を生贄に、敵の命を生贄に、長期的にも短期的にも欲しい結果を得る為に。勝ちを度外視した異質な思考は、誰にも読めるわけが無い。

「勝てば儲けものだからこれでいい。
 ……どうしたの?」

 ふと、蹄の音が聞こえた。
 動くなと命じてあるから兵士は動かない。なら、どういう事か。

「田豊様!」

 伝令が駆けて来る。汗も絶え絶え、馬を駆って来る兵の瞳は、焦燥と怯えを孕んでいた。
 辿り着いた兵士に、目を細めるだけで先を促す。

「ほ、報告致します! 増援部隊一万が張遼の襲撃に合い壊滅!」

 延津の掌握を優先していたから、神速を引きつけられたなら問題ない。
 その程度か……と別段焦る事も無く、夕は視線を外す。否、外そうとした。

「さらには、中間地点の拠点が大破。同時に、黄河の集積所では不審な漁船二隻から謎の攻撃を受け、船が十数隻燃やされました!」

 驚愕に目を見開く夕は思考が止まっていた。

「な……なんで直ぐに報告しない? まとめの将は何をしてたの?」

 三つの情報が一度に来た。それはまさしく異な事。だから、任せていた下位の将が報告を怠った理由を問いかけた。

「功に焦り、神速を止めるに至らず討ち死に。報告の兵は道中で張遼の部隊に殺されたかと。どうにか拠点のカタチは為しておりますが、纏まりが無く不安と焦燥に駆られております。私は白馬よりの増援部隊所属の兵士でございます故、張遼隊を潜り抜けて此処まで来た次第に。張遼の本隊は白馬に向かったと思われます」

 しまった、と思った。
 被害総数を聞きながら、自身の軍の脆さに苛立ちが込み上げる。
 まるで自分達がしてきた事の蒸し返し。そっくりそのまま返されている。
 自分達以外、報告兵への認識は甘い。夕や郭図は連携の重要性から何人か送るが、集められた豪族の部隊達はそこまで重要性を見ていない。
 さもありなん。袁家の軍勢は倍以上を有している。負けるはずが無いという慢心は隅々にまで行き渡り、細部まで掌握しきるには実力が足りない。何より、彼女自身が袁家を深い絆で結ぼうとしてこなかったのだから当然の帰結であった。
 瓦解するのは内部から。まさしく、夕が袁家を崩壊に導こうとしていたツケが、小さくとも現れた瞬間であった。

「……っ……分かった。下がっていい」

 ギシリ、と歯を噛みしめる。
 自分のせいではある。袁家のせいでもある。誰を怨む事も出来ない。
 負けたわけでは無いが、自分の思い描いている戦絵図に黒い墨が垂らされた気がした。
 黒い、黒い、一つの点。
 気にしないでもいいくらい小さい、されども、これから一つ二つと増えて行くであろう。

「張コウに伝令。優先事項を夏侯淵の討ち取りから撃退に。顔良を救出後、戦場をじっくり下げる」

 御意、の一言を残して一人の兵士が駆けた。
 背を見つめる内に、掌が湿り気を帯びていた。
 じと……と気持ち悪い汗が覆い、堪らず、夕は服の裾で拭い去る。

――船が一番の不可測。状況の判断が足りない。
 誰が指示した……決まってる。軍師が思いつかない一手を放り投げてくるのは秋兄しかいない。二隻程度で、死ぬかもしれない場所に優秀な者を向かわせるのはあの人しかいない。また、あの人が邪魔をする。

 胸が跳ねる。考えるだけで鼓動が高鳴る。
 頬が熱かった。追い詰められる度に、覆される度に、彼女の心が疼く。
 不思議な心地よさだった。軍師として最大限の力を発揮して、尚届かないこの感覚が。

「これを返したら、この戦で勝ったなら、あなたは私達のモノになる」

 熱っぽい吐息を吐きながら、顔を妖艶に綻ばせながら、今はまだ我慢だ……と、彼女は掌を胸に当てる。

――私を変えてくれたから、明も変えてあげられる。

 零したのは、彼女の大切に向けて。夕は明がこの戦場で死ぬと疑う事無く。
 それが何よりの力だとも知っているから。
 一つ目を瞑り、開いた双眸には黒の輝き。知性が巡る脳内は、不可測すら予定に組み込み始める。

「最低限の兵数被害の成果は出した。これからは機を待つのみ。最後はお前が来るだけ……曹孟徳」






 †





 屍、山の如し。
 幾多も積み上げられた死体の小山が並んでいた。
 ある者は矢が幾多も突き立ち、ある者は胴体が二つに離れ、ある者は手足が無く……風化すれば地獄の風景になるのではないか、否、此処こそが地獄であった。

「……これがお前のやり方か」

 引き裂いた笑みを浮かべた秋蘭の息は荒い。
 小山の死体にもたれ掛って、気配を読み解きながら気を抜く事は無い。

 其処は異端者の戦場。弓の名手の秋蘭に相対する為に、明達が作り上げた異質な舞台。
 秋蘭が広く場を取ったから、彼女は兵士に指示を出して“死体を集めさせた”。
 バリケード、障害物、言い方はいろいろあるが、そういったモノを組み上げる物資が何も無い戦場で、時間が経つ度に湧いて出る死体という道具を用いてそれを作り上げさせたのだ。
 なるほど、と秋蘭は納得した。

――やはりあいつは武人では無い。何が一騎打ち。くくっ……確かにお前と私しか戦っていないが、いや、褒めようか。さすがは血に飢えた紅揚羽か。

 先程までは舞っていた。
 秋蘭が矢を放ち、明が鎌を振り抜き鎖を扱い、傷一つつかないように避けあい、互いの武の限界を引き出しながら……まさしく一騎打ちをしていたのだ。
 しかしその舞は終わった。燃え上がる炎が視界に映った後、明が一つ指示を出した事によって、張コウ隊が舞台に上がった。
 行き交う張コウ隊に意識を向ければ、明の大鎌や鎖分銅が飛んで来る。
 矢には貫通力が無い。死体を盾にする程度で防ぐ事が出来る。張コウ隊はそれをやって夏侯淵隊からの矢を防ぎつつ死体を積み上げた。
 秋蘭の持つ精度の高い遠距離での一騎打ち。そのアドバンテージを封じられたわけだ。同時に、明は生い立ちから、こういった場所での動き方の方が得意であるのだ。

「あはっ! あはははっ! 隠れてたらつまんないじゃんかー! はやく殺し合おうよー!」

 甲高い声が響いた。
 彼女は一人、小山の上。一騎打ちなのか分からない戦場で、夏侯淵隊は矢を射ない。射る事が出来ないのだ。曹操軍であるが故に。秋蘭が華琳の腹心であるが故に。
 秋蘭達が持つ武人の誇りを逆手に取り、それをゴミのように投げ捨てた戦い方。卑怯か否か、では無い。才と兵の命を以って為した時点で、卑怯などとは口が裂けても言えない。まず、張コウ隊は明の言を守って、秋蘭に向かってもいないからこそ余計に。
 では、秋蘭が夏侯淵隊に血みどろの戦を指示すればいいのかと言えば、そうでもない。
 袁紹軍は徐々に数を減らしている。季衣という不可測が機能して、この戦場はまだ掌握出来ている。
 だが……数が多い。後から後から湧いてくる敵兵に、季衣の体力も考えれば、長くなればなるほどに最悪の事態が頭を過ぎる。

――やはり一番の方策は……あいつを磔にする以外無いらしい。

 命を捨てる覚悟はある。
 華琳が居ない場所でそれを持ってはならないと分かっているが、秋蘭は目の前の女を仕留めたい。ギリギリの線のやり取りになろうとも、華琳の前に捧げたい。
 あの時、春蘭を間近で見たから。
 洛陽で、彼女の敬愛する姉は身体の一部を失っても任務を全うした。
 心底、姉が羨ましかった。片割れの誇り高い姿が、己が目玉を喰らう姿が頭に焼き付いて離れない。
 悲哀で崩れ落ちそうになりながら、秋蘭は羨望の心を持っていた。高い忠誠心、狂信という毒は、それほどに扱い辛く御しがたい。

――季衣にはあいつらのようになるなと言ったが、私は既に落ちている。だから、お前と私は似ているのだろう、張コウ。

 自分の心を把握する術も、秋蘭は持っている。冷静に、とは言っても、譲れないモノも確かにあるのだ。
 夏侯妙才という女の意地は、華琳に認められ、春蘭と並び立つ事だ。
 本来なら、彼女は自分を律しきれただろう。一つ増えたモノが、彼女の枷を少しばかり外していた。
 安心、なのかもしれない。多分そうなのだろう。
 自分の代わりに皆を纏められるあの男が仲間になったから、自分も戦場で命を賭けていいと、やっと思えたのだ。

「だから……私は今、華琳様の為に“私がしたい事”を出来るのだ」

 勝ちたい、と心底から思った。
 主の笑顔を思えば、力が湧いてくる。姉の誇らしげな笑顔を思えば、笑みが柔らかくなった。
 迷いなど初めから無い。心さえ決めてしまえば、後はいつも通りに理合を頭で描くだけ。
 立ち上がり、目を向けると、明は笑っていた。口をより引き裂いて、楽しそうに。

「楽しそうじゃん。どったの?」

 抑え切れない衝動からか、自分の口も同じように裂けていた。

「いや……もう我慢しない事にしただけだ」
「へぇ、やっぱりあんたとあたしって似てるんじゃない?」
「ああ、ああ。認めよう。お前と私は似ているだろう。大切なモノが全てだから。でも違う。お前は自分が居ない」

 少しだけ彼女の目が細まった。不快気な色は見えないが、空気が張りつめた気がした。
 異質な戦場は秋蘭にも利を与えていた。時間があれば死体からでも矢の補充ができる。
 弓に矢を番え、明に狙いを定めた。ゆらゆらと揺れる明は、隙だらけなように見えて隙が無い。
 兵士は近づく事も無い。どちらも、与えられた命令に忠実であるが故に。

「……夕の為、それだけで世界は変わるからいいんだよ」
「私も華琳様の為だ。でも世界は変わらんさ。自分が変わろうとしない限り。お前の大切なモノも、変わってくれと願っているのではないか?」
「……っ」

 思考誘導だと分かっていても、明は乗らざるを得ない。歯を噛みしめて心を抑え付けた。
 耳を塞げばいいのに塞げない。聞き流せばいいのに聞き流せない。変わりたくない自分が居るから真に受ける。
 鎌が投げられた。矢が三本宙を走った。動きは同時。回避行動も同じ。屍の山を蹴り抜いて、脚が駆ける。
 分銅を投げるのが速かった。しかし慣れたモノで、秋蘭は僅かに身体を横に向けるだけで避け二本同時に矢を放つ。明が回転して視界を切った隙に……地に落ちていた一つの武器を……高く高く蹴り上げた。
 引きつけられる大鎌を伏せて避け、襲い来る鎖の列を弓で器用にいなし、途切れた隙間でまた二本の矢を放つ。

――後、三本。

 宙を舞う武器はまだ落ちて来ない。明は気付いているのかいないのか。いないなら、向かってくるだろうと分かっていた。
 手に持ち直した鎌を振り抜く事はせず、鎖だけで動きを縛りに来る明は、若干の余裕を見せて楽しげな笑みを浮かべている。
 避けながらまた一つ。矢を放った。容易に鎖で弾かれるが、遅れて二本目を放つと彼女は横にズレた。
 瞬間、高い金属音が鳴る。秋蘭の狙いは……明では無く、鎖。長すぎるそれを縫い留めた。
 一寸だけ、明の意識がそちらに向く。その隙に上をちらと見やり、最後の矢を構えた。
 引き抜かれた鎖が不可測の動きを以って襲い来るも、秋蘭の武器の一つは動体視力。避けるのに、なんら支障は無い。

――後、一本。

 肉薄まで後少し。秋蘭は最後の矢を放った。
 鎌で一閃。切り捨てられた。もう武器が無い。腰に据えてある護身用の剣くらい。そんなモノでは、凶刃に裂かれるだけ。真桜が強度を上げた弓なら受けられるが、それもしない。
 明は笑った。矢が切れたからか、それとも嗜虐心からだけなのか。
 秋蘭は器用だ。それでいて努力を怠らない。
 彼女が、接近戦でなんら対抗策を持たない事があろうか。
 此処二か月、武器なくとも戦えるあの男が、姉や神速と一騎打ちをしていたというのに、一つでも動きを盗まない事があろうか。動体視力に優れ、武人の素質を養ってきた彼女が。

 秋蘭は笑った。
 感謝かもしれない。
 歓喜かもしれない。

 確かに彼女は笑みを深めた。

「お前の負けだよ、張コウ」

 明の視界で、秋蘭の姿がブレる。
 考えるまでも無く反射的に鎌を横に薙いだ明も、武人の素質が高いのは目に見えて明らか。それでも、その位置に鎌を振ったのは間違いだった。
 明は武人では無く、効率的に人を殺す方法を高めてきたから、大鎌への信頼と、攻撃範囲への信用が重なって、腰の高さより上で横に薙いだ。
 だから、秋蘭が行った彼の縮地の真似事の対応としては、些か高すぎた。

「っ!」

 腹に掌底を叩き込む。力は其処まで強くないが、武器を振り切った無防備な状態には、十分な威力を持っていた。
 しかし、手に伝わる感触が弱すぎた。彼女が先に、思いっ切り地を蹴って飛び退いていたのだと気付く。

――凄いな、お前は。“予想通りに”。

 内心で褒めて、彼女は落ちてきた武器を手に取った。
 計算された時間。秋蘭の頭と器用さと視力あってこそ出来たモノ。明の着地が成る前にと……弩の引き金を引いた。
 唸りを上げる矢。一つでいい。たった一つだけで良かったのだ。宙である為にしっかりとした回避行動さえ取れないなら、後退して大型武器の引き上げも不安が残るなら、急所を狙ってやればいい。
 避けられないなら受けるしかない。そうなれば、何処で受ける。

「何も戦場で武器を変えるのはお前だけじゃない。こちらは矢に限りがあるのだ。使えるモノはなんでも使うさ」

 血が流れていた。武器を振っては間に合わないと判断して、心臓を守るように無理矢理身体をずらしたから、明の肩には矢が突き刺さっていた。
 間接の駆動に最も重要な場所が射抜かれた。弩はこれくらいの距離でも威力を発揮する。構えるだけで放てるその武器は、矢の短さからこのくらいの距離でも戦える。
 矢が半分近く突き刺さり、片手を不自由そうに確認していた。
 だらん……と片手を垂らして見つめてくる目は……昏い色が渦巻いていた。口にはまだ笑みを浮かべて。

「あは、痛いなぁ。まさか秋兄みたいな事出来るなんてさ」
「私が弓しか使えんわけがないだろう? こんな時代だ。武器を投げ出す事も、使えなくなる事もあるだろう。感謝しているよ、あいつには」
「武器が無くても人を殺せる。そういえば楽進も居たし、下地は出来てたってわけかー。愛用の武器持っちゃう武人ってさ、どっかしら頼っちゃうから隙があんだけど……あんたには無かったんだねー」

 のんびりと言葉を零していてもまだ気は抜かない。大きく力が削げたとしても、明は片手でも鎌を振れる。開いた距離から、近付いてくるかの警戒を怠らない。

「さて、まだ戦えるとは思うが、片手でも戦うか?」

 また、明の笑いが濃くなった。不安は無かった。そういう奴で、そんな笑みをいつも浮かべている、と。

「あったり前じゃん♪ この程度の傷じゃあ、あたしを止めるにはまだ足りないもん」
「なら、また踊ろうか」
「そうだ、ねっ!」

 秋蘭は弩の弦を引き……明が動いた。その場で無事な方の腕を引いただけで、場所は変わらない。
 気付くのが、遅れた。横に逃げただけでは、遅かった。

「あ……ぐぁっ」

 鈍重な痛みが襲いかかった。自分の背後から。左の腕がメキリと音を立てていた。

「あはっ! あはははっ! なぁんで分銅を戻さなかったのか、分かんなかったのかなぁ?」

 喋りながらの接敵。片手で振り被られた鎌は……命を刈り取る絶望の刃。
 こちらは弩が一つだけ。片手でも撃てるが、もはや二の矢を番える事も出来ない。今しがた番えた矢が最後の武器。
 相手の力は確かに下げられたが、こちらの方が危うかった。付け焼刃の体術ももう効かないであろう。

「ひひっ、楽しく踊ろうね♪」

 赤を見ながら、笑う。自分の力が足りなかったと。秋蘭は笑った。
 脚を動かして避け。身体を捻って掻い潜り……舞のようなその姿ではあっても、もう欲しい結果を得るには厳しい。

 悔しい想いが湧いてきた。
 自分では姉の横に届かなかったという事実が。ただ悔しい。姉のようになりたかったわけでは無いが、それでも届かないのは悔しいモノだ。
 自分なりに、力を出し切って戦った結果だ。普通の人々なら満足して悔いは無いと言うだろう。
 けれども、秋蘭は悔いがあった。

――まだ、まだだ……まだやれるだろうっ! せめて一矢、まだ終わってない、終わらせて……たまるモノか!

 諦めはしない。それだけは、華琳の元で戦うなら持ってはならない。主の許可なく命を散らせる事だけはしてはならない。
 命を賭けながらも命を散らせない、その矛盾の意思が、彼女達に力を与える。轟々と燃える心力が、彼女の身体に力をみなぎらせた。痛みは、不思議と感じなかった。
 秋蘭は鎌と戦うのに慣れている。その武器の特性も知っている。愛する主が、幼少の頃より愛用してきた武器だ。
 敵のモノは大きいが、それでも軌道は読めるし、致命傷をどんな時に与えられるか読み取れた。
 敵も片手故に、鎖は思う様に使えていない。だから、機を待つ事にした。

 切り上げ……身体を捻って避けた。
 横薙ぎ……伏せて躱した。
 袈裟切り……跳び退いて当たらない。

 目付けが出来る彼女は、無様に見えようと、狙いを定める鷹の如く鋭い眼光を明に向けていた。
 幾重の刃が宙を切る。そうして、明の元には不可測の隙が齎された。

「張コウ様っ! 田豊様よりの伝令です!」

 袁紹軍の伝令の大きな声が、明の意識を逸らした。
 彼女の命令ならば聞かなければならない。だから明は、秋蘭から離れる他無かった。
 警戒しつつも跳びのいた明は視線を秋蘭から逸らさなかったが……秋蘭は自分から同じ方向に跳んだ。

「なっ!」

 春蘭なら、明のように後退はせず、叩き伏せてから聞いてやろうとしただろう。
 秋蘭なら、そのまま報告を促し、目の前の敵を倒す事の方を優先しただろう。

――やはりお前は、武力が高いだけであって、武人にはなれなかった成りそこない。

「ふふっ……だからお前は武人じゃあない」

 弦の音、打撃音。
 二つが同時に鳴る。
 折れた腕で明の柄での打撃を受け、秋蘭は地を転がった。
 明の引き摺った腕には、もう一本の矢が突き刺さっていた。

 体勢を立て直した秋蘭は舌打ちを一つ。腰に据えた剣を引き抜いた。
 笑みが崩れた明はため息を一つ。片手で器用に、鎖を鎌に巻き始める。
 これ以上を望むか望まないか。その行動だけで理解出来た。

「ご、御無事ですか?」
「そのまま報告。速くしろ」

 つらつらと為された報告に目を細め、また盛大なため息を一つ。

「時間切れ。あんたを殺してもいいけど、他にやる事出来たみたい。延津の戦は終わらしてあげてもいいらしい」
「逃がすと思うか?」
「何がなんでも逃げるよ。それがあたしの次の仕事。交換条件を出してあげる。あたしをこのまま行かせるなら楽進と于禁とは戦わないし、“あの人の最終手段も使わない”」

 最後の言葉の意味を頭に入れるには時間が掛かった。

「お前……」
「あたしの部隊で出来る人数は少ないよ。でも出来る奴もいる。死にたいなら追って来い、槍で貫かれたいなら追い縋れ、楽進と于禁だけは、必ず殺してあげるから」

 言うだけ言って興味は無いと、

「張コウ隊、敵中央に突撃! 後発小隊、“黒麒麟の角を持て”!」

 声を張り上げ目だけで問いかける。返答や如何に。此処を死地とする覚悟はあらんや、と。
 遠く、中央には郭の旗があった。捕まえるなら此処で、軍を優先するなら張コウの提案を呑むべきだ。
 乱戦で死兵の群れと相対するのは……今の状態の曹操軍では厳しい。凪と沙和を失う事も拙い。敵はまだ田豊隊という余力を残してもいるのだ。

「……っ……夏侯淵隊、郭の旗に集え! 向かってくる敵には容赦するな!」

 近付いて来た兵士に伝令を一つ。稟にこれ以上戦場を長引かせるな、と。
 秋蘭の声を聞いた明は満足そうに頷いた。

「じゃあね、夏侯淵。もう二度とこうして二人で踊る事は無いと思うけど……楽しかったよー♪」

 子供のような笑みを向けて、彼女は駆ける。その瞳の感情は読み取れなかった。
 張コウ隊は誰も武器を向けようとはしなかった。じりじりと後退しながら、明の後背を守るだけ。
 背を見送り幾分。袁紹軍でも狂気に当てられていたモノ達も、徐々にではあるが部隊としてのカタチを為し始めた。
 駆け寄ってきた季衣を見て、秋蘭は力が抜け、彼女の小さな身体に支えられる。

「秋蘭様!?」
「ああ……季衣、すまない」
「う、腕が……」
「なに、このくらい大したことは無い。治る程度の傷なのだ」

 腕が紫色に鬱血した様子から、折れてしまっているのだと容易に分かる。
 力なく笑みを零した。悔しかった、足りなかった、届かなかった……と。

「姉者に比べればこの程度どうという事は無い。まだ命を賭けるのに躊躇いがあったようだから――――」
「バカ――――っ!」

 大きな声が耳を打った。季衣は力強い瞳で秋蘭を睨み、今にも涙が零れそうな程に、目を潤ませていた。

「秋蘭様は春蘭様が怪我した時哀しかったんでしょ!? なのにそんなことっ! ……そんなことっ……言わないでよぉ……」

 目を瞬かせた。自分の事を、そこまで心配してくれるとは思わなくて。たかが腕が折れたくらいで何を言っている、と。

「死んじゃっても良かったような……そんな言い方っ……しないでよ……ボクは、皆は、秋蘭様を守る為に……戦ってたのに……」

 あなたを失ったら、意味が無い。

 周りを見れば、心配を存分に宿した目で兵士達が見ていた。皆、同じ想いなのだと真っ直ぐに伝わる。
 どれだけ危うい戦いだったのか、彼らは理解していた。それでも尚、秋蘭の事を信じきって、一筋の矢で援護もしなかった彼らは……秋蘭の想いを間違わず。
 ふ……と笑みが零れる。

――お前達のおかげで、私はあいつみたいにならずに済みそうだ。

「ありがとう、季衣。それにお前達も。私を信じてくれて、戦ってくれて、守ってくれて」

 季衣の頭をくしゃくしゃと撫でた。誇らしげな笑みを浮かべる彼女に、良く守ってくれたと、また一つ言葉を零して。

――ああ、そうだ。私はこいつらの想いで華開く。姉者のようには出来ずとも、夏侯妙才のやり方で。

 収束する戦場で、蒼髪の麗人は美しい笑みを見せた。
 兵士達は、自分が付き従う彼女の想いを受け止め、幾多の安堵の吐息を零した。

 覇王の蒼弓と紅揚羽の戦いは、彼らの胸に刻まれる。
 大剣に劣るか……否。並ぶ事はあれど、劣る事は無し。彼女は誇り高く、たった一人で戦い切ったのだ、と。
 秋蘭の心は兵のそんな噂を聞いてか、今までに無い程に満たされていた。





 延津の戦いの終焉は思いの外呆気なく、張コウが顔良と合流した時点で終わりを告げた。
 乱戦の様相をそのままに、袁紹軍の主力部隊は引き上げを始める。追撃をするか迷った稟ではあったが、凪、沙和共に疲労困憊にして、まだそこかしこで兵が暴れていた為に諦めた。
 心の逃げ道を塞がれていた弱卒達は、本隊が退く様を見て追随する。そのまま武器を於いて降るモノも居たが、それは僅かに少数。明と夕に逆らいたくないと深層心理に刻まれた恐怖は、彼らの心を絶対的な鎖で縛りつけたのだ。
 秋蘭達は次の行動に向けてそのまま延津にて待機する事になった。その兵数を、大きく減らして。
 誰も将を失いはしなかったが、夏侯淵負傷の噂は広まる。されども、一騎打ちの噂からか、士気が落ちる事は無かったという。
 こうして、官渡の戦いの前哨戦二つの戦の第一の幕は下りた。
 



 †




 官渡の砦。彼の部屋では膝の上に座る少女が居た。震える身体は小動物のよう。月も席を外して、今は彼と二人きり。
 頭を撫でる。さらさらとした白髪が、艶やかな藍色が、指に流れた。
 ぎゅう、と抱きついて不安が消えるようにと、朔夜は彼に甘えていた。

「白馬は問題ないらしいが、延津で妙才が怪我したらしい。この戦では指揮のみになる。
 まあ……どちらにしろ兵が沢山死んだ事に変わりは無いか」

 さらに力を込められた腕。彼はそっと背中を撫で始めた。

「真桜の報告も聞いたけど、船戦の問題点も固まりそうだ」

 聞いているのかいないのか、朔夜は何も答えを返さず、只々震えていた。

「怖かったか? 遠くから人を殺すのは」
「……いいえ」

 きゅむきゅむと、彼の背に回した腕の先、掌を握った。
 別段、彼も責めようとはしない。

「なら、何がそんなに不安なんだ?」

 顔を上げて、目を合わせた。
 黒は透き通っていて、宵闇には美しく見える。

「秋蘭さんからの、報告にありましたが……敵があなたの真名を知っていたとのことです」

 秋斗の目が細められた。渦を巻いた感情が溢れ出す。

「手に入れるつもりだったけど、理由が増えちまったなぁ」
「もし……」

 区切られた間は人を引き付ける。しかし秋斗は、次の言葉を予想してか、ゆっくりとお茶を手に取って啜った。

「秋兄様と、一緒に立てた予定が違う方向に移行したなら……助けに行きますか?」

 コトリ、と湯飲みを置く。緩い息を吐きだした。目を合わせようともしない。

「そうさな。捻じ曲げるには欲しいわな。俺の記憶が戻る可能性があるなら……尚更だ」
「覇王が、許すとお思いですか」
「知らん。あの人は俺に心底から救いたくなったら戦に立たせると言った。俺が助けたいのは……」

 先は続けず、伝わるのは分かっていた。眉を寄せた朔夜は唇を噛みしめる。

「ダメ、です。死んだら、どうするんですか」

 咎める声は必死さがにじみ出ていた。潤んだ瞳には心配が溢れていた。
 朔夜の大切なモノは彼。優先順位が出来はじめようとも、一番上は彼だけだった。

「もしもの話だけで進めるな。何が起ころうとも対応するのが軍師、そうだろ?」

 質問に答えずに話をぼかす彼はいつも通り。これ以上尋ねるのは、彼の線引きを越える事になる。
 頭を一撫で。緩い微笑みを向けて、彼は喉を鳴らした。

「その時は俺を信じてくれな」

 自分も信じて貰ったから、彼にはそれ以上言えず。
 また、朔夜は彼の胸に顔を埋めて、

「やっぱり、秋兄様はズルい、です」

 小さく零した。
 ゆったりと流れる時間の中、彼と彼女は二人きり、この戦の行く末に想いを馳せて、どうか思う通りに進めと願いを込めた。




















 回顧録 ~トケテキエユク~



 まただ……

 また、彼女を助けられなかった。

 兵も、将も、軍師も、前よりも増やしたというのに。

 あの軍を潰してこの軍に居れた。

 あの人を殺してあの人を生かした。

 軋みを上げる心を見ない振りで

 そうやって強くして、舞台を整えたというのに。

 世界は残酷だ。

 動かなくなった身体は冷たい。

 血の通っていない身体は冷たい。

 なのに、彼女の表情は満面の笑み。

 何故……そんなに嬉しそうなんだろう。

 優しい彼女は、いつも人の命を大切にしていた。

 誰よりも、誰よりも大切にしていた。

 自分も似たような事を考えていたから、似たモノ同士だったんだろう。

 哀しくて、苦しくて、辛くて……でもやはり、この悲しい世界を終わらせたくて、どうにか走った。

 自分の力を出し切って、最大の数を救い切った。

 そうして、また……今回も平穏を手に入れた。

 二回目の終わりは、より多くの笑顔に溢れていた。

 光が眩しい。橙色の光が美しい。前に見た光景だと思って、やっぱり彼女と一緒に見たかった。



 だから……かもしれない。



 そう願ったから、こうなってるのかもしれない。




 ある意味で、この世界には救いがあるのかもしれない。




 彼女を救えるなら、自分は何度だって、この世界を繰り返そう。






 三度目の乱世でまた……自分を知らない彼女と出会った。



 心が悲鳴を上げていた。


 救いたい

 共に、幸せになりたい


 だから皆を、自分の都合で殺して生かす。

 だから誰かを、自分の都合で救って堕とす。


 どれだけ罪深いのか分からない

 どれだけ愚かしいのか分からない

 少しずつ、自分が壊れていくのだけが分かった。


 ただ、彼女さえ幸せならそれでいい


 そんな想いが、芽生えてしまった。

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。


延津後半戦。
秋蘭さんがメインなのでこんなカタチに。
秋蘭さんの一騎打ち、こんな感じになるかなーと。
恋姫っぽく描けていたら幸いです。
袁家では斗詩も少しばかり変わりました。
細部まで描いていたらもっと長くなるので泣く泣く切る事に。


次は外部です。洛陽か、試され過ぎた大地のどちらかになります。


ではまた 
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