大阪球場
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1部分:第一章
第一章
大阪球場
難波にその球場はあった。しかしそれを憶えている者はもうあまりいない。
古い話だ。そこに球場があったのは。
「昔な、ここに野球の球場があったんや」
「そうやったん」
そこを通り掛かった老人が自分が手を引いている小さい子供に話をしている。それは孫であろうか。その老人の言葉を受けてその球場があった方を見ている。そこにはもう野球とは全く関係のない住宅博覧会がある。野球の面影はもう何処にも存在してはいないと言えた。
「南海ホークスっていうてな」
「南海ホークス?」
子供は老人の言葉を聞いて言葉に疑問符をつけてきた。
「何、それ」
「ああ、それも知らへんか」
老人はそれを聞いてあらためて声をあげた。
「ほら、福岡の方にな。野球のチームがあって」
「うん」
そこから話をはじめていた。
「ソフトバンクホークスっていうやろ。そのチームは昔大阪にあったんや」
「大阪に野球のチームがあったん?」
「うむ。今は本物のチームはおらんようになったがな」
この老人はオリックスが嫌いであるらしい。少なくとも彼の好みではないようだ。
「あったんだ。二十年も前に移ってな」
「僕が生まれるずっと前やね、それって」
「そう、ずっと前」
老人はその子供の言葉に頷いた。
「つい昨日のことに思えるけれど二十年前の話になるんやな」
「僕、よくわからへん」
子供にとってはそうだった。
「それを聞いても」
「見てなわからへんものや」
老人はまた言った。
「けれど教えることはできるから。ここに野球する場所はあったのは憶えておきや」
「うん、わかった」
「また。話たるさかいな」
老人はそう言いながら子供と話をしていた。そんな二人の話を聞きながらもう還暦を迎えようという二人の男女がその住宅博覧会の前を歩いていた。
「なあ」
男の方が先に女に声をかけてきた。髪が八分程白くなり四角い眼鏡をかけている。ラフな格好だがかなり真面目そうな雰囲気である。
「憶えてるかな」
「憶えてるで」
その隣にいる女が微笑んで答えた。もうその顔には皺が何本も刻まれているが若い頃は奇麗だったのを思わせる顔をしている。二人はその住宅博覧会の場所を見ながら話をしている。
「はじめてデートしたのここやったな」
「そうやな。あんたがスケートしようって言って」
それを女に対して語る。
「それで一緒に行ったのがはじまりで」
「あの時はスケートに凝ってたから」
女はそう答えた。
「だからいつもやっててん」
「何かあの時は有名になっててんで、あんた」
「そうなん?」
「そや。大阪球場の小枝子ちゃんってな」
ここで彼女の名を呼んだ。
「有名やってんで」
「そやったらお似合いのカップルやってんな」
その小枝子は彼の言葉を聞いて微笑んだ。
「ボーリングの衡平君とで」
「そういえばあの時俺はボーリングに凝ってたな」
衡平も自分の名前を聞いて微笑んだ。
「ほんま好きやったな」
「大阪球場にあったんはスケートやったさかいな」
「ああ。それでもここには結構行ってたで」
だが衡平はこう小枝子に答えた。
「何でなん?」
「古本屋あったやん」
そう彼女に言う。
「あの辺りに。あったの憶えてるか?」
「ああ、そっちのところやったな」
衡平の指差したところに目をやる。住宅博覧会の右手、二人から見て左手であった。今二人の前にはマクドナルドがあり道が続いている。パチンコ屋も見えればコンビニも見える。二人が若い頃の難波とはまた違っていた。
「うちはあまり行かへんかったけど」
「本好きやったんちゃうんか?」
衡平は小枝子に対して問うのだった。顔が少し笑っている。
「それで何でここに来んかったんや」
「ううん、欲しい本はすぐに手に入ったから」
小枝子は首を捻りながら答える。
「それでやねん。ここの古書街にはあまり行かへんかってん」
「そうやったんか」
「そうやねん。一杯古本屋あって気にはなってたけど」
「わしは結構行ったで」
衡平はそのようである。
「安かったし。掘り出しもんがようさんあったしな」
「それでやったん?ここに結構来てたんわ」
「まあそれもある」
自分でもそれを認める。それに頷きながら前に出ると小枝子もついて来た。
「実際のところな」
「それもあるってことは他にもあるんやね」
「野球も好きやった」
住宅博覧会の中に入るとそこにはもう野球の面影はない。既に過去のものになってしまっている。だが衡平はそこに野球を見ているのであった。その見ているものを前提にして小枝子に対して話すのである。しっかりとそこにあるものを見たうえでの話であった。
「南海ホークスがなあ。杉浦が投げて野村が打って」
「うちそれは知らんで」
「何や、南海線におってもか」
「阪神ファンやもん」
そう言い返すのであった。
「一応南海のことは知ってたけれどな」
「野球はやっぱりパリーグやろが」
これは衡平の考えである。しかし小枝子は違うのである。
「ちゃうんか?それと」
「うちはちゃうで。ここに来てたんはやっぱり」
「スケートかいな」
「そういうことや。それであんたと会うたんやないの」
笑って言うのであった。笑いながらかつてスケート場があったその方を見るのであった。自然と衡平もそちらに顔を向けていた。
「滑ってたあんたと」
「そやったな。そういえばあの時は」
応える夫の顔にも笑みが浮かぶ。昔を懐かしむ優しい笑みであった。
「何かあったん?」
「いや、滅茶苦茶気分がよかったんや」
笑みが明るいものになる。それを自分でも感じて笑う顔であった。
「南海も勝ってな」
「結局野球かいな」
夫の言葉に呆れた顔と声になったがそれでも悪い気はしてはいなかった。
「しゃあないな、ホンマに」
「それで御前が奇麗に滑っててな。目がいってもうて」
「そうやったんか。何か話を聞いてたら」
「どないしたんや?」
「いや、思うてきたんや」
小枝子は自分の心にあるものを少しずつといった感じで言葉を出していく。だがそれは決して苦しいものではなく明るいものであり続けている。
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