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夏の湖

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第一章


第一章

                    夏の湖  
 夏の保養地の静かな湖のほとり。そこに初老の夫婦がいた。
「ここに来るのも久し振りよね」
「そうだね」
 夫は妻の言葉に頷いていた。穏やかな顔で。
 水芭蕉の花が咲いていてその香りが辺りを満たしている。霧の中に淡い青色の湖があり二人はその水面を静かに眺めているのであった。
「この前来たのは何時だったかしら」
「もう十年も前だったな」
 夫はそう妻に答えた。
「まだ子供達も小さくて」
「そうだったわね」
 妻はまだ幼さの残る美しい笑みで夫に答えた。夫はその妻の横でしっかりと彼女の顔を見ている。
「けれど今は」
「あっという間だったな」
 妻の顔を見ながら述べた。
「大きくなって。こうして二人で旅行ができるようになって」
「昔は毎年来ていたわよね」
 妻は夫にこう言ってきた。
「そうだったわよね。結婚する前から」
「ああ。そうだったな」
 夫はその言葉に頷いた。
「昔は。ずっと」
「何時から来なくなったのかしら」
「結婚してから。いや」
 夫は自分の記憶を辿った。そうではないと記憶が告げていた。
「子供達ができてからだったな。それから足が遠のいて」
「十年前に一回きりだったわよね」
 妻はそう夫に対して答えた。
「その子供達を連れてね。来たわよね」
「そうだった。あの時はどうも」
 夫はここで苦笑いを浮かべたのだった。いい想い出と悪い想い出が一緒にある顔であった。見れば二つの感情が複雑に入り混じっている顔であった。
「子供達の相手ばかりしていたな」
「あなたはまだましだたわ」
 妻はそう夫に告げた。
「私なんて。まともに自分の時間なんてなかったし」
「済まない」
 夫はその苦笑いで妻に詫びた。
「あの時は。御前にばかり苦労をかけたな」
「それでもいい想い出になったわね」
 それでも妻は優しい笑みで夫に述べるのだった。
「あの時のことも」
「そうなのか。ならいいが」
「それでね」
 そのうえで夫に言うのだった。
「これからは毎年ここに来るのよね」
「俺はそのつもりだよ」
 夫は妻の顔と湖を交互に見ながら答えた。霧の中にある湖は何処までも淡い青で澄んでいた。そんな彼の頬を穏やかな風が撫でる。妻の頬もまた。
「御前と一緒にな。御前はどうなんだい?」
「私もよ」
 妻の答えも決まっていた。にこりと笑って述べるのだった。
「本当はずっと来たかったけれど」
「仕方ないな。子供達がいたから」
 それが理由だった。子供がいればどうしても夫婦だけの時間ではなくなる。時として、いや殆どの場合子供が家庭の主役になってしまう。この夫婦も例外ではなく子供達にいい意味でも悪い意味でも振り回されていたのだ。それがようやく終わり今ここにいるというわけである。
「それは」
「その子供達も大きくなって」
 だがそれはあくまで小さな子供で。大きくなればまた夫婦の存在が戻って来る。今度は若くはないがそれでも熟した時間がそこにはあるのだ。
「やっと来られるようになって。よかったわ」
「そうだな。本当に」
「それでね」
 妻は穏やかな笑みを夫に向けて声をかけてきた。
「覚えているかしら。全部」
「全部?」
「結婚する前のことも」
 それを夫に対して言ってきたのだった。
「覚えているかしら」
「ああ」
 夫は妻のその言葉に頷いた。やはり湖と妻の顔を交互に見ながら。見ればそれは妻も同じだった。だが彼女はどちらかというと夫の方をよく見ていた。
「御前とはじめて出会ったのは」
「ここだったわ」
 妻は言う。
「ここで。貴方は一人旅で」
「御前は喫茶店でアルバイトをしていて」
「お給料がよかったから」
 妻は昔のことをその目の前に浮かび上がらせながら言葉を出す。
「それだけだったけれど」
「それで俺と出会ったのもここだったよな」
「偶然だったわ」
 二人は同時に同じものをその目に見ていた。それは二人にとっては永遠に忘れられない貴く、そして美しい記憶であった。宝石のような。
「休み時間にこの湖を見に来て」
「俺はここで昼飯を食べていたな」
 湖の端に置かれているボートを見ながら言う。彼はその時ボートを漕ぎながらその上で昼飯を食べていたのだ。サンドイッチと牛乳の質素な食事を。
「そこで御前をたまたま見て」
「あなたを見て」
 妻もその時のことを思い出して語る。
「それがはじまりだったな」
「そうね。声をかけたのはあなただったわね」
「ああ」
 彼は答えた。短いがはっきりした声で。
「奇麗だったからな。今と同じで」
「もう」
 今の夫の言葉には頬を赤らめさせる。あの時の少女の顔で。
 
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