乱世の確率事象改変
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大剣持ちし片腕が二人
遠く、遥か遠くを見据える黒髪の少女の目には何が映るか。
規則的に押し寄せる水音は浅く静かに鼓膜を震わせる。眼前に広がる黄河はまるで海のよう。対岸など、見えるはずも無い。
「あ、夕ー! 軍議だってさー!」
甘ったるい声が背中に掛かるも夕は振り向かず。鋭く瞳を光らせたまま、微動だにしない。
速足で駆けてきた明は速度を緩め、近付くと同時に彼女の小さな身体を抱きしめた。
「……曹操軍が渡河してくる可能性は二割。敵には船が圧倒的に足りないから、少数精鋭での攪乱と陽動が主体、多くて二千、少なくて千。こっちの本陣まで切り込んで来れる程の将は夏候惇、張遼、夏侯淵……そして秋兄。渡河は馬の負担が大きい。騎馬隊を扱う張遼は勿体ないから黄河を越えさせない。私なら……弓と弩が主体の部隊を扱う夏侯淵、補佐に楽進か于禁を付けて渡らせる」
敵の情報を推察して、事前に零されるのは軍議で話す内容。
じ……と揺らめく水面を見つめる夕は、感情を挟まない声で語った。
「秋兄が来るんじゃないの? 部隊の精強さは折り紙つきだし、前の戦いで徐晃隊を怖がってる兵も沢山いるんだからさ。それを見逃すあの人でも無いでしょ?」
「情報では秋兄は官渡に駐屯しているらしい。手広く撒いた細作はほとんど付近を巡回してる張遼隊に殺されちゃったけど、数が多かったからちゃんと情報は入ってる。だから、白馬で戦うのは夏候惇。張遼は遊撃主体として白馬と延津、どっちもの救援に迎えるようにしてる。それが向こうに出来る手堅い組み方」
「兵数ではこっちが倍以上。有力な将ではあっちが上。って事は……分けるんだね?」
「ん、白馬に兵の五万と文醜、郭図を送る。延津には同じく五万に明と顔良、そして私が行く。麗羽が一人になるけど二万居れば問題ない。劉表の所にいる呂布が来るわけじゃないから」
そこまで聞いて目を丸くした明は、慌てて夕の身体を自分に向かせた。
冷たい黒瞳が見上げてくる。宿る知性の光は、背筋を薄ら寒くさせる輝きを持っていた。
「なんで? 白馬に猪々子だけが行ったら……どれだけ兵士が多くても負けちゃうじゃん。軍師は夕じゃなくて郭図なんだよ?」
自分の考える事など理解していると知っているから、下手を打てば死ぬ……までは言わず。
共倒れ狙いの外道策を使う事も在り得る。何故なら、敵は曹操軍に於ける武の象徴。出鼻から一番太い柱を折る事が出来れば、袁家側の優勢は揺るぎようが無くなる。
むしろ、自分ならそうする。それが明の考えである。猪々子を使い捨てて勝ちの目を大きくするのは、彼女にとっては当然のこと。
目を細め、僅かに眉を寄せる夕。明の発言に疑問を感じたのではなく、その瞳に浮かんでいるのは、思いやりであった。
「文醜が大事?」
一言。
それだけで明も気付く。自分が無意識の内に猪々子の身を案じていた事に。
前までの明ならば、絶対に有り得ない確認の言葉。戦略的な目的の為に誰かを犠牲とするのは二人にとって普通であったはずなのに。
明の表情が歪む。苛立ちと、気持ち悪さを感じて。
――なんであたしは夕に猪々子の事を尋ねた? あたしは夕だけの為に……のはずだったのに。
ズレた感覚は戻らない。目的の為なら二人で一つだった自分達が、分かたれてしまった。戦でのたれ死のうと気にならなかった存在を気に掛けてしまったのだ。
後付けで浮かんだ戦略的不利の意見はあった。しかしそれが浮かぶよりも先に、無意識のまま思わず尋ねてしまった。夕だけが大事な明にとっては、余りに異常な事態であった。
「ふふっ」
柔らかい笑みと綺麗な瞳。
夕は明が他者を殺したくないと思っていた事に、嬉しさを感じていた。
「文醜が大事。ふふ、うん、それでいいんだよ?」
「ちがっ……違うもん! あたしはあんなバカがどうなったっていい! 夕だけが大事だっていっつも言ってんじゃんか!」
自身の心が理解出来ない明は、泣きそうになりながら否定した。自分に彼女以外の大切なモノが出来たなんて……認めたくなくて喚いた。
夕は、ぎゅうと明に抱きつく。大切な宝物を胸に抱く子供のように、優しく。
「気にしなくていいと思う。私と同じ欲張りになったらいい」
「……っ……」
瞬時に跳ねる身体を抑え付けて、無理やり言葉を呑み込む。嫌だと言い掛けた。それだけは認められない、と夕の想いを拒絶し掛けた。
彼女が自分を“人”に戻そうとしている事は分かっていたが、直接言われるとここまで違うのかと明は衝撃を受ける。
――受け入れろ、受け入れろ、受け入れろ、受け入れろ、受け入れろ。
夕がそれを望んでるんだから、あたしはそうならなければならない。自分が心を向けるモノが増えた事を、認めなければならない。
何度も言い聞かせて抑え付けなければならない程に、大切なモノが増えたと認める事を心が拒絶していた。
唇が慄く。吐き気も込み上げてきた。胸の中がざわざわと気持ち悪い。
桂花は確かに大切になった友だ。しかし明が求めたモノでは無く、夕が求めた友達。だから明だけが求めるモノが出来たと気付けば、自分自身を受け入れられない。
どうにか押し込もうと葛藤していた明の両頬に、白くて細い手が添えられる。
無理やり合わされた黒は優しい色を浮かべていた。彼女のそんな瞳がより一層、明の心を乱してしまう。
「ゆっくりでいいから。この戦が終わってからゆっくり考えたらいい。だから今、私はあなたに命じよう。この戦ではそれを考えないで。私の言う事だけを、聞いて?」
諭されると心が徐々に落ち着いていく。考えるなと言われるだけで、自分がするべき事を示してくれれば、明は何も迷う事は無い。
「……うん」
されども、口から出た返事の声は短く、いつもの笑みも浮かべられず、簡素であった。
するりと首に手が回された。自然な動作で腰を僅かに落とした明の耳元に寄せられるは桜色の唇と、甘い吐息。
「大丈夫、大丈夫。大切なモノには優劣が付く。それを付けられない人間は、本当に大切なモノを見つけられていないだけの可哀相な人。其処には純粋で狂おしい想いが無い。自分を捨てていい程に他者を心の底から想った事が無い、想う事が出来ない、私達や秋兄みたいになれない、そんな人達。
私はお母さんが一番、あなたが二番。麗羽と秋兄と桂花が三番くらい。あなたは私が一番で、これから繋がるモノを次席に振り分けていく。ただそれだけ。だから、大丈夫」
紡がれていく言葉。凍らせた心に穿ち入れられるは、明にとって安息と温もりを齎す理論。自分にとって大事なモノだけを守る彼女達が組み上げてきた歪んだ理論。
夕だけが一番であれば、何も問題は無いのだと。その優先順位が変わる事は絶対に無いのだからと。
――移ろう心はあるけど、変わらない心もまたある。私達は変わらない。優先順位は、変わらない。誰かを選べない愚かしい人間にだけは……絶対にならない。
心の内で唱えながら、自身の想いを再確認していく夕。顔を少し離して、濁り切った金色の瞳と視線を結ぶ。
「ありがと。もう……問題ないよ、夕」
薄く浮かべた笑みに、小さく出された舌の色はただ赤く。空腹を埋めるかのように口づけを一つ落とされた。
切り取られた時間には波の音が響く。心を洗い流すかのようにも、心を乱すかのようにも聞こえるそれにも、明の心は揺らがない。
離れて見つめると黒瞳は優しく輝いていた。
「文醜は死なせないよ? 郭図もどうすればいいか分かってるはず。兵士にたくさん死んで貰うだけ。この戦の第一段階はまた敗北から始める。それを知ってていいのは、私と明と郭図の三人でいいの」
キョトン、と目を丸くした明はまた口を引き裂いた。袁の王佐の思惑を漸く理解して。
「あー、なるほどね」
僅かに湧いた安堵に苛立ちが生まれる。しかしその程度の揺らぎは、もはや抑え込める。
確認するように瞼を閉じた。目の前の温もりを失わせない為ならなんだって捧げよう。
――あたしは夕の言った通りにすればいい。この戦さえ終わればきっと、全てが上手く行くんだから。
「了解だよ、あたしのお姫様♪」
ぎゅうと一度だけ抱きしめて、ペロリと舌を出して笑った。
目の前の小さな少女を信じる事こそが明にとっての光であった。
二人で軍議場に向かう為に並んで歩き出して幾分、夕は空を見上げた。蒼い蒼い空が広がっていた。一つの白い雲が留まっていた。日輪に雲が掛かり、齎されるはずの光は自分達に当たっていなかった。
不服そうに唇を尖らせる。何故、自分達を照らしてくれるのを邪魔するのかと、気まぐれな雲を睨みつけた。
――私達が望む日輪の光を翳らせるような雲は要らない。光を求めても届かせようとしない雲は、風に流されでもして千切れて消えてしまえばいい。
一人内心でごちて、自分達が光を浴びる事を望んだ。
この薄暗い、自分達が歩く宵闇の如き乱世の細道を抜けて、幸福の光を受けられる事を願って彼女は進んで行く。
†
袁紹軍は軍を三つに分けて、その内の二つに黄河を渡らせた。
東の文醜と郭図の軍、その数五万……白馬よりもさらに北に船を止め、簡易な陣を組んでから南下を開始した。
対するは曹操軍。東の白馬に於いては、防衛戦の準備を整えていた春蘭と流琉、そして風。彼女達は五万の軍を、城に配置している一万五千で迎え討つ事となった。
遠くに砂塵が見えた。城の付近である為に開けた平地となっているその端。
白馬は虎牢関やシ水関のような要害では無く、都である洛陽のように長い城壁も持っていない。
城に置ける防衛戦が初めての流琉は、緊張からか顔を強張らせ、口を真一文字に引き結んでいた。
「うむ……やはり軍が押し寄せる様は敵だとしても見栄えがいい。金ぴかが反射して眩しいのは趣味が悪いと言わざるを得んけどな」
隣でぽつりと零した春蘭の言を聞けば、さらに力が入ってしまうのも詮無きかな。
じわりと広がる手汗に気付き、急いで服でごしごしと拭った。
「報告では五万と聞きましたけど……」
――大丈夫なんでしょうか。
将たるモノが口にしてはいけない。それを知っているから先を続けずに春蘭を見つめた。
「ん? なに、たかだか五万だろう?」
あっけらかんと言い放つ春蘭には口を開け放っても足りないくらい。
兵法の基本は数。そして弱い敵を狙え、である。それをたかだか、と言い切る彼女に不安を感じた。
通常ならば季衣が春蘭との連携も良いので配置されるのだが……今回は何故か流琉が共に付かされている。軍師達の判断であるのだからと呑んでいるも、流琉は不安が胸いっぱいに広がっていた。
――私で……春蘭様を抑えられるんだろうか。
狙いはそんな所だろう、と思い至っている。自分が秋蘭のような抑え役として機能する、そう信じてくれているのではないか、と。
軍師達の満場一致でこの配置となった。しかし……経験が足りない自分をどうしてこんな重要な戦場に送るのか流琉には分からず。春蘭に聞いても『ふむ、そうか。まだ流琉には分からんか』と一言だけ。
そして他にも疑問はあった。
「一万と五千……どうしてこの数なんでしょうか?」
兵数である。
確かに延津にも同時進行してくるだろうと予測されていたが、もう少し数を送ってくれても良かったのではないかと考えてしまう。
「……じゃあ聞くが、流琉は五千以上の兵を指揮した事があるのか?」
「……あ」
気付いた。季衣と一緒に率いていた親衛隊は最大で五千。華琳の指揮の恩恵があっても、それ以上の数を率いた事は無い。
くしゃり、と頭を撫でられる。見上げた麗人の横顔は、ただ凛々しかった。
「経験を積め。まだこの乱世は続くぞ。五万の軍を私とお前で蹴散らすのだ。その事実は何よりの力となる」
「……はいっ」
ずっと秋蘭を見てきた。彼女のようになりたいと願って、追い縋ろうと積み上げてきた。
季衣を抑える自分なら、春蘭を抑える秋蘭と同じになれると思っていたから。
――なんて視野が狭かったんだろう。
違う。それでは、それだけではダメだった。
流琉は秋蘭では無い。だから、皆から学び、吸収し、伸びなければいけなかった。それを教えられた。
キラキラと光る眼差しを向けられて、恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻いた春蘭は前を見据える。
幾分、空気が変わる。何を以ってか、春蘭は口元を引き裂いた。
「くくっ」
砂塵はまだ遠く、速度はそれほど速くない。歩兵か、それとも騎馬の脚を休めているのか。
喉を鳴らしただけの笑みに、流琉はぶるりと寒気が起こった。獰猛な獅子。まさしくそれが居た。普段は愛らしい猫のような一面を見せる彼女が、これほどまでに凶悪な笑みを浮かべた所を、流琉は終ぞ見たことが無かった。
「優しいお前に楽しめとは言わん。それでも、この戦は楽しむモノだと言っておく」
ポン、と頭に手を置いた後、春蘭は颯爽と外から中へと脚を向ける。漂う圧力はその背を大きく見せ、無意識にゴクリと生唾を呑み込ませる程。
たたっ、と続いた先、城壁の中には人、人、人の群れ。蒼い鎧を纏いて居並ぶ、彼女の為の兵士達が其処にいる。
再び見上げれば彼女の笑みは消えていない。むしろより不敵に、より獰猛に彩りをいやに増していた。
「……待たせたな! 此処よりは我らの望んだ戦場だ! 敵五万に対するは一万と五千!
だが、それがどうした! 我が名は夏候元譲! 曹孟徳が片腕なり! 血を浴びようとも浴びせるな! 主に捧げた眼は既に勝利を見ているぞ!」
雄叫び、天を衝き、大地が震える。割れんばかりの歓声には信頼と尊敬を込めて。
見よ、我らが将は臆さず怯まず。我らはいつもの如く並び立つのみよ……と。
「流琉、左は任せた。私の左目は華琳様の元にある。だから、お前が私の左を守るのだ」
嗚呼、と心が震えた。その言葉は、悲哀を生むモノでは無い。誇らしげなその笑みは、自分が親衛隊として当然の仕事をするだけだと言ってくれている。
――いつも通りに守る。それが仕事。季衣は此処に居ないけど、この身を掛けて守り通さなければならない人が……居るっ!
心の隅々まで燃え上がるは守りの信念。生まれ出でてから常に高めて来た自身の戦う意味。
「任せてくださいっ!」
愛らしい笑みを浮かべて響かせる声には歓喜の音色。
うんうんと頷く春蘭と共に、流琉は城壁の上から“下りて行く”。
のんびりと、ゆっくりと、ふわふわとした金髪をなびかせる少女が一人、すれ違う。
「時機は任せたぞ、風。行ってくる」
「行ってきます!」
「お任せあれー。くれぐれも怪我とかしないでねー」
日常時の話し言葉に気が抜ける。
無茶を言うなとは言わない。それが彼女の心配から来る回りくどい思いやりの言葉だと知っているから。
階段を下りればどちらも無言。ほどよい緊張感が胸に与える高揚が血を沸かす。
待たずともよい。彼女達の前の門は、開け放たれている。
吹き抜ける風が心地よく感じた。城壁の上で感じていた風向きから察するに、外に出れば追い風となるだろう。
にやり、と馬に飛び乗った春蘭は笑う。見える砂塵はまだ遠く、城に着くには遅すぎた。
「行くぞっ! 我らが主に勝利を捧げる為に! 私に……続けぇ――――――っ!」
街中に響くかと思える程の大声を合図に、春蘭率いる曹操軍は……突撃を開始した。
彼女達が思い描く戦の前哨戦である白馬の戦い。その戦端は、大剣の堂々たる一閃を以って幕を開けることとなった。
「春蘭ちゃんは突撃がお好きなようですが、突撃と言ってもやりようはイロイロあるのですよー」
城壁の上で一人ごちた風は、頬を撫でる涼風に心地よさげ。
見れば突出した騎馬部隊が五つ、群れを為して砂塵へと向かい行く。追随するは騎馬の倍を有する歩兵達、左前方にペパーミントグリーンの髪を揺らす少女が颯爽と率いていた。
碧の瞳には冷たい輝き。優しさも無く、思いやりも無く、盤上の駒を動かすが如く、冷徹に。
不意に見えた幾多の光。宙に煌くそれらは矢の反射光であった。追い風に流されてズレた射程では、望んだ被害は齎せない。
ふぅ……と小さく息を付いた後、口に咥えていた飴を宝譿に持たせ、くるりと身体を半回転。両の手を口元まで上げ、
「誰かー」
間の抜けた声で人を呼んだ。
そうして現れた兵士に指示を一つ、二つ。
走り去った背に手を振って、また城壁から戦場に向き直った。
「さて、団扇が必要にならなければいいですね。風も熱いのは苦手ですから」
†
物見の兵の報告では門が開け放たれたまま、とのこと。細作でも仕込もうと昨日送ってはおいたモノの、帰ってくるはずも無く。
通常の攻城戦では無いな、と分かり切ってはいたのだが……まさかいきなり突撃して来るとは、猪々子は思いもよらなかった。
近付いてみるまでは徐州でもやられた空城計かどうかも分からない。そう、郭図も猪々子も、多寡を括っていたのが間違い。
五万もの軍勢となれば、陣容も重厚に組み上げられる。
数段に別れさせた歩兵部隊の列。弓部隊をぐいちに混ぜ込み、敵の出鼻をくじくは当然のやり口。騎馬部隊を何時出すかもじっくりと決められる。
しかれども、それは野戦に於いて、向かい合ってのことが多く。今回は攻城戦にと赴いたのだから、行軍の最中に突撃を食らわされては端までの陣容変化には時間が掛かる。
最後方は別に放っておいても良い。郭図がなんとかするだろう。問題は……慢心と油断、焦りと困惑が織り交ざった先端の部隊である。
問題にならない程度の風が吹いていた。向かい風だというのが気にはなったが、城攻めの方向を変えればいいだけだと気にも留めていなかった。その結果がこの始末である。
放った矢は照準が合わずに大半が無駄討ち。別れた五つの敵部隊、数は千ずつには合わせられようも無い。そうして、矢の如く駆ける五つが指示の行き届いていない弱所を見切って……喰い付いた。
舌戦は無し。戦とは本来このようなモノであるとでも言いたげな程のバカ正直さ。真正面から堂々と突っ込んでくる突撃は躊躇いの欠片も無かった。
騎馬隊の強みとは衝撃力である。敵軍を蹂躙する一番のモノは、この時代では騎馬隊が主流。平地に於いては絶大な力を発揮する。
ただ、いち早く最も精強な春蘭の部隊の動きを見切り、重厚な兵列指示を出して対応した猪々子の嗅覚もやはりか。
同じ匂いを感じ取った彼女は、にやりと不敵に笑っていた……自軍の弓兵が矢を番える前、砂塵が見えた瞬間に。
――ははっ! 戦ってのはそうじゃなくっちゃな? 楽しいよな、楽しくて仕方ない……
中央の自分の牙門旗目掛けて、必ず春蘭が突っ込んで来るだろうと信じていたのだ。
「お前もそうだよなぁっ! 曹操が片腕……夏候惇っ! 来いよ! 掛かってきやがれ! あたいはっ……此処だぁ――――――っ!」
怒号、雄叫び、断末魔……野太い声に埋め尽くされている戦場で、彼女の声が快活に響き渡る。付き従う兵はその笑みに釣られて口元を歪め、応えるかのように牙門旗を大きく振った。
バトルジャンキーである猪々子。元よりその部下達は同じような戦バカばかり。それも……袁紹軍にとって最悪の部隊達を相手に生き残った猛者が圧倒的に多い部隊である。
幽州では関靖の捨て奸を越えた。
徐州前半では徐晃隊最精鋭の決死突撃を相手取った。
後半では残存の徐晃隊や曹操軍の精鋭部隊と戦った。
この数か月は彼らにとって地獄だったと言える。それを生き残ったという自信と、恐怖が刷り込まれる程に異質な死地の経験を得て、そして曲がる事のない彼女が居るから……自分達をナニカに変えていた。
やはり我らの将は最高だ……大剣を敵に向けて突きつける彼女の背を見れば、兵達の皆は歓喜に打ち震える。
殺し合いを楽しむのは人として間違っている。そんな“下らない事”は頭の外に追い出していた。今の今だけは。この戦場という狂気溢れるこの場所でだけは。
命の駆け引きが楽しいか、それとも敵を屠るのが楽しいか……断じて否。
彼らは自分達の力を十全に出せる事が楽しくて仕方ない。殺しという敵に与えた結果に意味は無く、自分が全力を出し切れるかどうかが最重要となる。
だから彼らは彼女と同じく、今この時だけは“武人”であった。
「後ろの細かい動きは郭図に任せとけ! 騎馬隊なんか幽州で腐る程戦ってきた! あいつらと真正面から戦えんのはあたい達で決まりだろ! 奴等が来る、あたい達が行く、ぶつかる、そんでもって倒すっ! 行くぜ……あたいに続けぇっ!」
雑多な歩兵の群れ、隅々にまで騎馬の突撃を知らせるには声では些か心元無い。銅鑼は他の命令に使っている。もっと効果のある道具を袁紹軍は持っていた。
黒に塗られた金属製のソレを、猪々子は大きく肺一杯に空気を吸ってから口に咥えた。
高い音が上がった。大切な、大切な音が。“彼”の知らない所で、“彼女”の知らない所で……黒の嘶く声が戦場に響いた。
袁紹軍の中央は乱れていた。
居並ぶ歩兵を蹂躙すれば、練度の低さから、その区画だけでも雑多に混ぜ込まれた乱戦になるは必定。
敵は大軍。孤立無援の部隊となってはならない。それを良く知る春蘭は後背に流琉達が到着する時間を知っていた。親衛隊が後ろに居る、という戦場は春蘭にとって当たり前。ましてや、流琉と共に並んでいる部隊は自分の副隊長が率いる純粋歩兵。それが合わせられぬはずがない。
そんな中で、耳に届いた笛の音に春蘭の黒髪が揺れる。猪々子が自分の居場所を示す声は届いていた。任された仕事はまだ先だからと気にせず戦っていたが、さすがにその音を聞き逃すわけにはいかなかった。
「貴様らがあのバカの嘶きを使いこなせるか、使いこなせないか……私は知ってるぞ」
――華琳様の親衛隊でさえ、まだ完璧には使いこなせていないのだから。
複雑な命令は指揮系統を鈍らせる。元々単純な命令伝達の為に作られた笛である。多種多様な扱い方を部隊に教え込むには時間が掛かり過ぎる。
積み上げられた練度に信頼と絆があってこその黒麒麟の嘶きであるのだ。
「お前達は徐晃隊のようには戦えない。面倒くさい小隊指揮の連携制圧は出来ない。
くくっ、まあどちらにしろ、私がぶち破ることに変わりはないがな!」
黒麒麟が敵であろうと、自分のする事は変わらないと言わんばかり。本調子の、最精鋭の徐晃隊であったとしても、勝つのは自分だと春蘭は自負していた。
言いながらチラと後方を見やり、流琉がまだ来ない事を確認した。
こちらの被害はそれほど出ていない。袁紹軍は自分の兵にすら矢を射掛けると雛里から聞いていたが、今回はなされていない。かといって、臆病に戦々恐々としながら戦うなど、春蘭には出来ないしするはずも無い。
血に濡れた大剣を一振り。隻眼には轟々と燃える闘志。歓喜から吊り上る口元は、自分が戦うに値する敵への称賛を込めて。
ふと、思い出したモノがあった。
自分が渡した銀の笛。大切な宝物だと握りしめた少女は……泣いていた。
悲哀湧き、苛立つ、心の芯その奥まで。代わりに、というのは愚かしい考えだ。
――しかし一太刀、せめて一太刀だけは……華琳様の為だけでなく、お前とあの子の為にも振るってやろう。
兵列が割れる。乱雑に立ち並んでいた歩兵弓兵の類が焦りと歓喜を沸かせて散り散りになっていく。
一直線に、真正面から、敵は突進してきていた。
「へへっ、おっそいからあたいが来てやった! 片腕同士、仲良くシようぜっ!」
左に春蘭の部隊が多く寄った。辺りを警戒する視線は鋭く、威圧を放つ空気は尋常では無い殺気を纏っていた。
彼女の部隊には、洛陽での一騎打ちが穢された事は一生の不覚。春蘭が隻眼になってしまったのは、彼らの失態であったと心を戒めている。もはや二度と繰り返すまい、と心に火が燃える。
信頼から、春蘭は彼らに何も言わない。言わずとも、彼らが自分にとっての最善な行動をとるのだと“知っている”。
故に、不敵な笑みで大剣を構え、馬を走らせる彼女は……目の前の敵の事だけを考えればいい。
「生憎、お前と遊んでやる時間は少ない。
ただなぁ……雛里が泣いていたから……あのバカの代わりに想いを乗せておこうと思う」
猪々子の馬が駆けて来る。春蘭は両手に大剣の柄を持ち、腰元右斜めに構えて速度を上げた。
奇しくも大剣同士。純粋な膂力を以って、彼女達は敵を叩き斬る事に長けている。バカだバカだと罵られる事の多い二人は、似ているのかもしれない。
目を一層に開いて、大きく息を吸ったのはどちらもであった。互いに、一合に全力を乗せると決めたのだ。
肩に大剣を担いだ状態の猪々子も、向かい行く春蘭も、来る衝撃に備えて太腿にはさらに力を込めた。
顔に浮かんだ笑みは、両者共が不敵。狙いは、互いに理解していた。
殺気が無い。けれども、そんなモノは無くとも人を殺せる。
あるのは、自信と高揚と別々の想い。技は無く、ただの純粋な力比べ。自分が上か、相手が上か。
馬が交差するその一瞬、その一時
振り合う二つの大剣が描く軌道は真逆
……兵士の誰もが、胸の奥まで響く振動を感じた。
ありとあらゆる声が戦場から消えた。剣戟も降りしきる矢も無視させてしまうほど、意識の全てをその一合が持って行った。
次いで、情けない悲鳴が上がる。春蘭が駆け抜けた先、袁紹軍の兵士達からは……紅の華が咲き誇った。仕事はまだ終わっていない、と春蘭は振り返りもせずに戦場を自在に駆けていた。
その後ろで、地に何かが落ちた。
重量のあるソレは宙を舞い、場所を選ばず血と臓物が散らばる大地に落ちた。
「あー……くっそー。こんな初めっから終わりにしちゃ、ダメだけどっ!」
ビリビリと痺れる掌を片手だけ振り、春蘭の駆け抜けた後で漸く動き出した後続の兵隊に、中ほどで叩き折られてしまっている大剣を思いっ切り投げつけた。
武器を折られては戦えない。武人が武器を折られては、それ即ち敗北を意味する。
袁紹軍の兵には、じわじわと恐怖が押し寄せる。
たった一合で決まってしまった優劣。自分達の将と相手の将の力量差を把握すれば、弱きに心が馳せて行くのだ。
しかし……
――愛用の武器がやられた。でも、それがどうした。
満面の笑みで、打ち震える猪々子が居た。心に湧き立つ悔しさはある。しかし今は、それを抑え付けなければならない時であった。
振り返れば、自分の部下達が春蘭に向かい行く。前を向けば、夏候惇隊にも向かって行く。わらわら、わらわらと、文醜隊の最精鋭が群れて行く。彼らの表情は楽しげであった。
一人の部下が駆けて来た。渡されるのは予備の大剣。戦おうぜと誘っているような、否、戦うんですよねと問いかけているような、そんな笑みを浮かべていた。
武人としての戦いは……もはや勝敗が決した。しかし戦人としての戦いは、部隊は、軍は……負けてなどいないのだ。
「あんたは強いよ、夏候惇。でもさ……」
同じような笑みを浮かべた猪々子は春蘭には“向かわない”。部下が向かった事さえ確認出来れば、後は彼らに任せるのみだった。
彼女が向かう先は……たった一つ。
「バカさなら、あたいの方が上なんだぜ、きっと!」
剣で新たに指し示すのは敵歩兵部隊。ペパーミントグリーンの彼女が寄せてくる、その部隊。
付き従うのは、春蘭を抑えに向かった兵達以外の文醜隊。
「さあ行くぜお前ら! 次はあの歩兵部隊だ! 夏候惇隊をぶっ倒してから貫いてやろうぜ!」
言ってすぐに先頭を駆ける彼女に、やはり我らの将は最高だ、と内心で零しながら続く兵隊たちには、バカしかいなかった。
敗北の意味を間違えない部隊が、この時の袁紹軍を突き動かし、行動によって纏め上げていた。
†
風が決めた予定は不意打ちの突撃策。城での防衛戦をするだろうという温い予測、わざわざ空城計を偽って二転三転と思考遅延を仕掛けていた所を食い破る。
真正面からの奇襲と言っていい。それが出来るのは曹操軍では春蘭と霞だけ。
城壁の上でのんびりと構えていた風は、戦場の動きをじっと見やっていた。
高所から見下ろせば、目に入る範囲の戦場は手に取るように分かる。だからこそ、袁家が作った移動櫓は恐ろしいと言える。
「ふむぅ……そろそろでしょうか。順繰りに攻めて来る敵部隊はちょっと厄介でしたけど」
宙に溶ける言葉は何を思ってか。
戦場に大きな変化はない。あるとすれば、漸く典の旗が文の旗をいなしつつ春蘭の元に辿り着いたくらいだ。
袁家にしては通常の戦場。兵の被害はあちらが多く、始めの突撃が効いているのか、浮足立って包囲網さえ築けていない。
かといって何れかの部隊を切り離して城まで攻めて来る様子は無く、拍子抜けも甚だしい。
予定ではここいらで引き上げるべきである。
数とは力。如何に将が勝っていようと、時間と共にその差がじわりじわりと広がっていくのだ。
勝ちの雰囲気に呑まれて引き摺り込まれる前に退いておくか、それともこちらに引き込ませる為に少々の犠牲をやむなくさせるか……風はそれを読まなければならない。
通常ならば華琳に献策する。軍師達が各々に見解を述べて、一番最良を華琳が判断して選ぶ。
それに対する甘えは、この戦で捨てなければならない。
「……敵将の性格でしたら追ってきそうなモノですけど、軍師が他の部隊を動かしてこないのは不気味に見えたり……うーん、どうしよう」
悩む前にすっぱり決められればいいのだが、吐き出す相手がいない時というのはこうも違うらしい。
戦で不惑は難しい。英断が出来て、それが尚且つ正しいモノは少ない。どんな智者英雄であれ、どれを選ぶかで悩む事はある。
思考を巡らせ、風を見て、日の傾きを見た。
春蘭が猪々子を討ち取ればよかったのだが……決めてある予定上、それが出来ない。
「あ……」
唐突に気付いた。この戦場の違和感に。
――どうして、あんな適当で無茶な動きをする将を放っておくのか……
押し寄せる部隊の一つ一つに突進突撃、他の部隊は救援の動きも粗雑に過ぎる。まるで、別に見殺しにしてもいいような、使い捨ての駒のような動かし方。
それを許す敵であろうか? いくら桂花が一番に警戒していた田豊でないとしても、郭図は筆頭軍師に上り詰めたモノであるのに。
風の瞳に知性が輝く。敵の思惑を読み取ろってやろうと、雷光の如く巡らせる。
掴み取った答えからか、眉根を寄せ、さーっと顔を蒼褪めさせた。
「……本当の狙いは此処じゃなくて……あっちですか」
それでも慌てずに、ゆるゆると振り向いて立ち並んでいる兵士の一人にちょいちょいと手招きを一つ。
すぐに駆け寄って片膝を付いた兵士は、
「張遼隊に伝令。黄河に沿った街道の中間地点に向かい、北上せよ。最速で我らと合流、です。情報遮断に警戒を置きつつ必ず伝令を届けてください」
その後に、追加の伝令を一つ二つ。
御意、の短い声と走り去る背を見て、他の兵もちょいちょいと呼ぶ。
「今日の戦は終わりなので、迎えの準備をしましょうかー」
返答を示した兵が旗を振れば、総勢二百人程度が城壁の上に居並ぶ。少々少なく感じるが、彼女にとっては使いようがある。
「ではー、銅鑼を鳴らし、旗を振ってみましょう。春蘭ちゃんに気付いて貰えるように」
†
「夏候惇様! 程昱様よりの合図です!」
駆けてきた兵が告げる。最先端で戦っていた春蘭達の元に合図が為された。
乱戦となりつつも、最終線が途切れていない戦場。よく抜かれずに耐えきったと褒めてやるべきだろう。城壁を見れば幾多の旗が揺れていた。追加の兵がどれだけいるのか、そう思わせる為の撤退を支援する小細工。
春蘭としては、猪々子の心を折れず、敵兵の士気も自分が思い描いていたモノより下げられなかった事が悔やみ処だが……風が下がれというなら下がらなければならない。
軍師の判断を汲まない、春蘭はそんな愚かな将では無い。華琳の命令が事前に為されてある時にだけ、軍師の命令では無くそちらに従うという……何処まで行っても華琳の片腕なのが春蘭である。
「うむ。一当てして後退させよ! 騎馬隊は道を開け!」
言いながら、自身は夏候惇隊の歩兵部隊を引き連れ、流琉の部隊と共にじりじりと下がっていく。まだ攻める、と思わせながら下がるのは戦では通常の事。
横を見れば、猪々子が流琉の部隊に押し出されていた。
左側の敵兵が少なかったことから、流琉が今回の戦でどれだけ春蘭の言いつけを守っていたかが分かる。当然か、と零しながらも春蘭の表情は何処か誇らしげ。
猪々子と目が合った。また強襲を仕掛けて来るかと思えばそうでもないらしく、ふふん、とあちらも誇らしげに笑っている。
「あたいは生き残ったぞ! 夏候惇!」
それは大胆な宣言であった。事実を胸を張って語る彼女は、何を考えての事か。
生きていれば勝ちで、まだ負けてないとでも言いたいのか。再戦を希望しているわけでは無く、先程までのように無茶苦茶な突撃をしてくるわけでも無い。
「あんたもたった一回じゃ物足りないよな? またやろうぜ!」
子供のような笑顔を残していく彼女は、戦場であるのに背を向ける。バカと豪胆は紙一重と言うべきか否か。
――無駄に殺すわけじゃねぇのさ、か。相手が退くならこれ以上は無駄かな。そろそろ郭図は“あっち”に手を回してるだろうし。あんな無茶してもあたいは死ななかったってのは……ホント、怖いなぁ、田豊のやつ。
ここで追撃を掛けずしていつかける。戦を知っているモノならば誰もがそう思う。しかし、猪々子には、もはや追撃する気がさらさらない。
「ああ、またな。しかし“嘶き”を使うのは止めておけ、とだけ忠告しておいてやろう」
鳳凰の羽に焼かれるぞ、とは口が裂けても零せない、零さない。みすみす情報を相手に与えるような事は出来ない。
「あははっ! バカ言え、あたいはコレ使うの気に入ってんだ! 黒麒麟の力の欠片だって知ってるけど、あたいは遠慮なんかしてやんない!」
戦で便利な道具を使うのは当たり前。敵が使っていた道具だからと使わない、そんなバカな事があろうか。道具も、兵器も、戦略も、戦術も……敵味方の区別なく行使されるだけの“力”である。
ただ、猪々子はそんな事はどうでもよくて、あの部隊が“羨ましい”だけ。
黒に塗られた金属の笛を握って振り向いた彼女は、可愛らしくはにかんでいた。
「この戦で……にしし、あたい達は欲しいモノぜぇんぶ奪わせてもらう」
賊の理論であろう。それでも力強く堂々と宣言する彼女の言葉は“理”。個人としての優劣は明らか。それでも食って掛かる猪々子に、袁紹軍の兵達は何を見るか。
勝つ側が負けた側から奪うのは当たり前。それが許される世の中なのだ、この乱世は。
言い換えれば、外部勢力の動きで背水の陣に追い込まれた麗羽達には後が無い。もはや、それしか道は残されていないのだ。
猪々子は難しい事は分からない。
しかし……乱世の理を、強者の立場として口にする彼女は、兵を率いる将に相応しい。この一戦だけで、白馬に集う袁紹軍は厄介な敵に早変わりしたと言える。
それを読み取った春蘭は目を細めた。ああ、バカだなと感じながらも、心地よさを感じながら。
「ふん」
鼻で笑う。不敵に、楽しげに。バカにしていると取れるその笑みは、傲慢さというよりかは強者の風格。
「やってみろ。奪う側がどちらか……その身を以って知る事になるだろう」
春蘭の言葉を最後に、猪々子は軍を引かせた。ぞろぞろと砂塵を上げて引き返していく軍に、春蘭達も追撃を仕掛けず。
白馬の戦い第一の衝突は、こうして幕が下ろされた。
†
「こっちの被害は二千と五百……へぇ、あの短時間でか」
薄暗い天幕の中で報告を聞いていた郭図は、別段驚いた様子も無く語る。
先端に配置していたのは新兵が多く、猪々子の部隊以外は最古参はほぼいない。袁紹軍にとっては、必要な絵図を完成させる為の生贄である。
「白馬はもう一回だ。それだけでいい。田豊の奴が延津を壊滅させてりゃあいいが……まあ、こっちの将の数を見ても不可能か。それにしても……」
地図を広げて淡々と繋ぐ。
「神速……が、厄介だな。全く」
途中、山間に置かれた一つの駒を憎らしげに見下ろした。
「曹操軍の軍師連中は敢えて短期戦略を取らねぇってこった。今回の“威力偵察”でそれが確認出来ただけでも大きい。文醜よぉ、お前が生き残れたのはそんなとこだ。田豊と立てた予測の通りにな」
「……あー、もうちっと分かり易く言えよ。ってか説明が足りねぇ」
目をぱちくりさせて首を捻る猪々子。
舌打ちをついた郭図は呆れたように盛大なため息を零した。
「これだから脳筋は……」
「おいてめっ! あたいだってイロイロ考えてんだぞ!?」
「はいはい。お前が考えてるのは桃色な妄想かバクチのあれこれだろうが」
「だ、ダメ人間みたいに言うな!」
「うっせぇ、説明しても理解出来ねぇだろ? お情けを掛けられて生き残れましたー、それだけ理解しとけ」
ぐ……と言葉に詰まる。
一騎打ちの一合……あれは問題ない。力量差から負けたが、死ななかったのは個人の力が生きるに足り得ていたという事なのだから。
彼女は武器を失ってから、武器をもう一度掲げたにも関わらず、春蘭は気を向けようとしなかった。それも……問題ない。互いに武人から戦人に変わったというだけであるが故に。
一番の問題は一つ。
無理矢理突出した一つの部隊その中、袁紹軍の二枚看板と謳われる文醜を……曹操軍の屈強な兵士達が包囲もせず決死にもならずに流していたという事だ。極上の手柄が目の前にあるにも関わらず、兵達にさえ取るに足らない存在だと扱われた。
腹立たしいか、と問われれば悔しさが大きい。
確かに戦うのはいつも通りに楽しかったが、それを知ってしまえば高揚していた気分も霧散してしまった。
生き残った、と宣言したはいいが、決死突撃の地獄を抜けたあの時のような達成感は皆無だった。
自軍の兵達の指標になる為に、奮い立たせる為に見せた姿……それがあの宣言。武器が折れても決して折れない心を示し、敵に無茶苦茶な突撃をしても生きて帰れば、兵は気を引き締める。自分達も覚悟を決めなければならないのだ、と。
しかし曹操軍の士気には大して影響を与えられていない、張子の虎扱いだと気付いた。
「曹操軍は普通の戦をしてねぇ。俺達と同じく、な。だからお前らには分かんねぇだろうよ」
慰めにも聞こえる言い方をした郭図は、苦々しげに口を歪めていた。
猪々子は呆気にとられるも、べーっと舌を出してから天幕を後にした。
一人残った郭図は舌打ちを一つ。
「お前らみたいな駒には分かるわけねぇわな……この戦は将棋と同じなんだから」
冷たい声は誰に零すでもなく。静かな天幕には応える声も無し。
後に引けない状況では、勝利せずして道は開けない……と、誰もが思う。
一人思考に潜る郭図の頭には、幾多の勝利図が浮かんでいた。
「勝っても俺が死んだら意味がねぇ……が、とにかく今は目の前の戦だ。状況が揃っても情報が入らねぇと手の打ちようが――――」
ぶつぶつと一人で組み上げていく。
いつもの笑みは零されない。それほど、この戦はその男にとっても苦しいモノだった。
回顧録 ~ユメノハザマニ~
笑い合ったのはいつの事だったか。
夕暮れか、暁か、橙色に染まる空は美しく、いつまでも見ていたいと思ってしまうほど。
それが一番印象に残っている光景。
高笑いが妙に似合っている華麗で優雅な彼女も
自身なさげで呆れながらも助力してくれる彼女も
バカばかりだけど側に居る皆を大事にしてくれる彼女も
みんな、みんな大切な宝物だった。
大切な『 』はいなくとも、幸せに生きて行こうと美しい橙の空に誓った。
次の日も、そのまた次の日も、ずっとずっと幸せな日々が続いていく
そう、信じていたのに
世界は……残酷だった。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
白馬の戦いです。恋姫らしい戦に出来ていたら幸いです。
猪々子ちゃん推し。
次は延津。
ではまた
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