トラブル=バレンタイン
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トラブル=バレンタイン
トラブル=バレンタイン
真夜中の台所で一人悪戦苦闘している少女がいた。エプロンはもうこげ茶色に汚れていて疲れた顔をしている。だがそれでも彼女はボールを前にして戦い続けていた。
「もう少しなのに」
そのボールの中にあるこげ茶色のドロリとした液体を見下ろしながら呟く。そしてそれをかき混ぜるのであった。
黒い髪をポニーテールにしており卵に似た形の顔である。目は細く一重になっておりそれがかなり印象的である。肌は白く背も高い。美人であるが特にしっかりしたような印象を周囲に与える感じであった。
この少女の名を筒川早苗という。中学二年であり恋だのそういったものに興味のある年頃だ。今は付き合いはじめた彼氏の為にバレンタインのチョコレートを作っているところであった。
「明日だからなあ」
横にあるカレンダーを見る。見れば二月のカレンダーであった。
「何とか仕上げないとね」
そしてまたチョコレートをこねはじめた。そして悪戦苦闘を続けた。今彼女はチョコレートのことしか考えてはいなかった。
彼女の彼氏というのは同じクラスの男の子である。バスケットボール部に所属しておりかなり背は高い。顔は普通位だがその気の優しさとスラリとしたところが気になっていた。たまたま早苗がバレーボール部であり部活の練習の時いつも隣同士であり部室も隣なので一緒にいる機会が多くなった。そして気がつけば付き合っていたというわけだ。
そして今はその彼氏の為にバレンタインのチョコレートを作っている。勿論他のクラスの男の子の為のチョコレートもあるが全て義理である。これはもう言うまでもないことであった。
悪戦苦闘の結果チョコレートは完成した。傍目にはかなり不安な作り方であったがそれでも彼女にとっては合格であった。それを冷蔵庫に入れてエプロンを外して寝る。それで次の日への準備は終わった。
その次の日、言うまでもなく運命の日である。早苗はパジャマのまま台所に向かうと冷蔵庫に入れてあった本命のチョコレートを取り出した。
「よし、上手くできてるわ」
「昨日ずっと作ってたやつだよな」
「うん」
高校生の兄の言葉に頷く。見れば兄はもう高校の制服に着替えていた。紺のブレザーであった。
「かなり苦労しただろ」
「わかるの?」
「わかるよ。だって目が真っ赤だからよ」
「えっ」
慌てて台所にある鏡を見る。見ればその通りだった。
「学校で居眠りなんかするなよ」
「わかってるわよ」
自分によく似た顔ながら背はずっと高い兄に対して言う。
「お兄ちゃんこそ。昨日も遅くまでゲームしてたんじゃないの?」
「昨日はゲームはしてないよ」
「あら、そうなの」
「ずっと漫画読んでたのさ。御前と違うよ」
「本当は今日のこと考えてたんじゃないの?」
ここでふと言い返した。
「もらえるかどうかって」
「馬鹿、御前と違うよ」
兄はこう言い返した。
「もう彼女もいるさ。少なくとも本命のチョコは一個はあるんだ」
「そうなの」
「そんなことより御前こそ気をつけろよ」
「何をよ」
「競争相手に負けたりしないようにな」
「岳君は浮気したりなんかしないわよ」
「どうだかね」
だがここで兄はわざと意地悪な顔をしてみせた。
「男なんてな。裏ではどうだかわからねえよ」
「それはお兄ちゃんだけよ」
そんなことを話しているうちに母親が来た。まずは兄に対して言う。
「一三はさっさと御飯を食べて学校に行きなさい」
「はいよ」
「早苗は着替える。そして御飯を食べるのよ」
「わかりました」
早苗はそれに頷いた。見れば兄は慌しく御飯を食べはじめそれが済むと家を出た。父親はもう職場に出ている。早苗は部屋に戻ってパジャマを脱ぎ学校の制服に着替える。それはセーラー服であった。黒地に昔ながらのくすんだ赤のリボンを持つセーラー服であった。早苗はそれを着て食事と身支度を終えて学校に向かう用意を整えた。
その際鞄の中にチョコレートを入れるのは忘れなかった。これを忘れては流石にどうにもならないからだ。
「遅れないようにね」
「わかってるわ」
母親に挨拶をして家を出る。そして学校に向かった。
まずは学校の体育館の中にあるバスケ部の部室でジャージに着替え朝練に参加する。この学校のジャージは上下共に青いジャージでありかなり目立つ。それで軽く汗をかいたところで練習は終わった。
制服はそのままで教室に向かう。この学校では制服でいるよりジャージでいることの方が遥かに多いのである。そうした学校であった。
「ねえ畑中君」
早苗は部室を出る時にたまたま近くにいた例の彼氏に声をかけた。
「あ、俺」
「あんた以外に誰がいるのよ」
早苗はそう言って笑った。そして彼に対して言った。
「やっぱり」
「今日だけれど」
「チョコレートのこと?」
「ばかっ」
慌ててその言葉を引っ込めさせた。そして辺りを見回す。幸い誰もいなかった。
「よかった」
早苗はそれを確かめてほっと胸を撫で下ろした。がらんとした体育館には二人の他に誰もいなかった。
「それでね」
「うん」
二人は側に寄って小声で話をはじめた。
「今日の放課後渡すから」
「本当に!?」
「だから声が大きいのよ、あんたは」
そう言ってまた言葉を遮る。
「そう言う早苗ちゃんだって」
「いいから。まずはね」
「うん」
早苗に押し切られる形となり話を続ける。
「放課後西一丁目の公園で待ってて」
「俺の通学路と逆じゃないか」
「だからよ。そこならばれないから」
実は二人の交際は学校では内緒にしているのである。見つかると何かと周りが五月蝿いからだ。
「放課後。それでいいよね」
「時間はそれでいいけど」
「お互いばれたらまずいじゃない。だからね」
「わかったよ。それじゃ」
「うん」
こうして渡す時間も決まった。後はそれまで何食わぬ顔で過ごすだけである。
周りではもう渡す渡さないの話になっている。だが早苗は何も知らないといった涼しい顔で学校での時間を過ごしたのであった。
そして部活が終わるまでそのままの顔であった。部室を出た瞬間に表情を変えた。まるで仮面を脱ぐ様に。
「さてと」
にこやかな顔になっていた。そして体育館を後にする。だがここで声がかかった。
「ああ筒川」
「はい!?」
クラスの担任の声だった。後ろから声をかけられ振り向く。
「丁度よかった。今帰りか」
「何かあるんですか?」
「うん、実はな。ちょっと手伝って欲しいことがあるんだ」
「はあ」
癖のある髪の三十代の男の先生である。授業では美術を教えている。
「職員室に来てくれ。クラスの奴も何人かいるからな」
「わかりました」
断る暇もなかった。そしてそのまま職員室に案内される。そしてそこで先生の作業の手伝いをさせられた。壊れた棚の修理であった。運悪く先生に見つかった他の数人のクラスメイトと一緒にそれを手伝う。終わったのはもうかなり経ってからであった。
「やれやれ」
やっと終わったのを見て公園に行こうとする。だがまたしても先生に呼び止められた。
「悪かったな。それで御礼なんだが」
「御礼?」
「ラーメンをご馳走するぞ。皆来い」
「ラーメンですか」
「手伝ったかいがありますよ」
他のクラスメイト達はそれを聞いて喜びの声をあげた。だが早苗にとってはいい迷惑だった。
「筒川もな。来い」
「・・・・・・はい」
「ん!?嫌か!?」
「いえ」
学校のすぐ側のその店に入ってラーメンをご馳走になる。醤油ラーメンは美味しいことは美味しいのだが時間にとっては美味しくはなかった。店を出てようやく解散となったが早苗はさらに焦りはじめた。
「まずいなあ」
外は暗くなって大分経つ。きっと今頃岳は公園で待ちくたびれていることだろう。言い訳のことよりもまずそれを思うと溜息が出た。
「こんなことになるなんて」
待たせるのは辛い。早苗は今その気持ちを味わっていた。そして溜息を出したのであった。だが出したところでどうにもならないものであるのはわかっていることであった。
とりあえず行くしかなかった。もう公園にはいないかもしれないとも思ったがそれでも行かなければならない。そうでなければ昨日夜遅くまでチョコレートを作った意味がない。それに今日のことは付き合うようになってからずっと考えていたことであったのだ。
絶対に渡さなければならない、彼女は思った。そしてラーメン屋を出ると足早に西一丁目の公園に向かうのであった。だが彼女を阻む障害はまだ存在していた。
通学路の道で通せんぼに遭った。時間が遅いせいか車の量が多くとても通れなかったのだ。
「まずいなあ」
余計に時間が気になる。車は何時まで経っても切れそうにない。早苗はそれを見て不安を募らせていった。
どれだけ待ったかわからないがやっと車が切れた。彼女はそれを見計らってようやく道を渡った。また時間が過ぎてしまっていた。
それでもやはり行かなければならない。公園には岳が待っているしやはりチョコレートがある。とにかく行かなくては今日という日の意味がないし付き合ってきたことも意味がなくなる。彼女は足早どころか駆け出してしまっていた。
「急がなきゃ」
こう思った。だがそれが間違いであった。
暗い夜道を暫く駆けていた。灯りはあるが朧であり足下ははっきりしない。早苗はそれを忘れてしまっていた。
こけた。思いきり前のめりに倒れた。鞄も前に放り出してしまい大きく倒れてしまった。
「痛っ・・・・・・」
右膝に痛みが走る。どうやらすりむいてしまったらしい。それに鞄も手を離れてしまった。
骨に痛みがないからどうやら擦り傷らしい。それに内心ホッとしながらも辺りを探った。鞄がなくてはどうにもならないからだ。
「あっ」
探していると何かがあたった。だがそれは鞄ではなかった。冷たい石であった。
「違うの・・・・・・」
早苗はそれを暗がりに慣れてきた目で見てまた溜息をついた。よく見ればそれはいつも見ているお地蔵様であった。残念ながら鞄ではなかった。
「お地蔵様かあ・・・・・・」
何かバレンタインには場違いに思えた。だがそれはすぐに過ぎ去り急に心が静まった。それはお地蔵様に触れたからであろうか。
早苗は何となく落ち着いてきた。膝は痛むがそれでも何か安心してきた。そして辺りを見回す。
見れば足下に鞄が落ちてあった。早苗はそれをに気付くと手を伸ばした。
「こんなところにあったの」
目も慣れてきていた。もうお地蔵様の顔がはっきりと見える。お地蔵様の優しい顔を見ると今度は笑いたくなった。にこりと。
「お地蔵様」
早苗はお地蔵様に声をかけた。彼女はこの時穏やかな笑みを浮かべていた。
「有り難う、何か元気が出て来たわ」
そう言いながら立ち上がる。そして制服についた砂を払う。
それからまたお地蔵様に顔を向ける。頭をぺこりと下げた。
「それじゃあ行って来るわ。彼のもとへ」
だがお地蔵様は何も言わない。そもそもバレンタインにお地蔵様は幾ら何でもお門違いである。だがそれでも何故か御礼を言った。言わないといけないと思ったからだ。
頭をあげるとやはりにこりと笑っていた。鞄を手に今度はゆっくりと歩いていく。夜道に気をつけながら。
お地蔵様はそんな彼女に対して顔を向けることはできなかった。ただそこに立っているだけである。
だがそれでも早苗にはお地蔵様の心がわかったような気がした。そしてそのままそこにたたずんでいた。
その頃岳は公園のブランコに座っていた。そして一人早苗を待っていたのであった。
「遅いなあ」
公園の時計を見ながら呟く。それは噴水の中央に立っており闇の中に一つだけ立っていた。
彼はずっとその時計を見ていた。そして不安げな顔でブランコをキコキコと鳴らしていた。その小さな音が彼をさらに不安にさせるのであった。
「すっぽかした、なんてことはなあ」
不安げなまま呟く。
「あいつに限って」
早苗の性格はわかっているつもりであった。それでも一人で寂しい公園にいるとやはり考えてしまう。
何かいたたまれなくなって席を立つ。そして辺りを歩き回った。
公園には彼の他は誰もいない。ただ夜の濃紫の世界と公園の外の家々の灯かりが見えるだけである。
その家々の中は温かいのだろう。家族の笑い声が聞こえるようであった。それを思うと何か今度は寒くなってきた。
「まだかな」
また呟いた。吐く息が白くなっていた。
ブランコからシーソーの方へ歩いていく。そしてそこから公園の入口を見る。だがやはり誰も来そうになかった。
そのまま入口を見ているがやはり誰も来ない。岳はそれを見て不安さをさらに増していった。
「来るのかな」
また時計を見る。もうすぐ八時だ。これだけ待ったことは流石に今までなかったことだった。
ふと諦めて帰ろうかと思った。これ以上待っても来ないかもしれない、そう思いはじめた時だった。
不意に入口に誰かが姿を現わした。見ればスカートを履いている。
「まさか」
岳はそれを見て早苗かと思った。その影は公園に入りこちらに向かって来る。
「早苗ちゃん?」
「待たせて御免なさい」
この言葉でわかった。彼女に間違いなかった。
「ちょっと色々あって。それで」
「訳はいいよ」
彼はこちらにやって来る早苗に対してこう言った。
「それよりも。来てくれたんだね」
「当たり前でしょ」
彼女は言葉を返してきた。
「今日はこの日の為にあるんだから」
「そうだったね」
岳はその言葉を聞いてにこりと笑った。
「それじゃあ」
「ええ」
早苗は鞄の入口を開けた。そしてそこから何かを取り出した。
「お待たせ。これが今日の私からの贈り物」
「有り難う」
それはハート型のチョコレートであった。ピンクと白の紙で覆われリボンで飾られている。岳はそれを受け取った。
「手作りよ」
「嘘」
「嘘なんかついてどうするのよ」
早苗は言った。
「こんなことにまで。どうして嘘をつかなきゃいけないのよ」
「それもそうだね」
岳はそれを聞いてにこりと笑った。
「味はちょっと自信ないけれど」
「ないんだ」
「はじめてだったから。手作りのチョコなんて」
早苗は恥ずかしそうに言う。暗がりなのでよくはわからないが顔を赤らめているらしい。
「けれど。よかったら食べて」
「それだけれどさ」
「何?」
早苗は岳の様子が変わったことに気付いた。
「実はさ、俺ずっとここにいて」
「それはわかってるわ。だから御免なさいって」
謝ったのである。それは申し訳ないと思っている。
「いや、そうじゃなくてさ」
「何なのよ」
「その、ずっとここにいたからお腹が空いて」
彼は照れ臭そうに言った。
「だからね、その」
「わかったわよ、チョコレートね」
早苗にも彼が何が欲しいかわかった。遅れた手前それを断ることができないのも。
「本当はお家に帰ってゆっくりと食べて欲しかったんだけれど」
「まあ仕方ないじゃない」
岳はそう言いながらリボンを解き紙をとっていく。そしてその中からチョコレートを取り出したのであった。
「それじゃあ頂きます」
「どうぞ」
口を開けてチョコレートに顔を近付けていく。早苗はその様子をしっかりと見ていた。
「どうなのかしら」
問題は岳が何と言うかである。美味しいかまずいか。それを注視していた。
チョコレートを噛んだ。そして割って口の中に入れる。そのままモグモグと噛みはじめた。
「どうかしら」
「うん」
彼は一口飲み込んだ後で答えた。
「美味しいよ」
「本当!?」
それを聞いた早苗の顔がパッと明るくなる。
「うん。甘いしまろやかだし」
「ミルクをたっぷり入れたから」
「そうだったんだ。いや、こんな美味しいチョコレートはじめてだよ」
「そんな」
「本当に。何か凄く嬉しいし」
「うふふ」
「よかったらさ、また作ってよ」
「また!?」
「うん、よかったらさ」
「駄目よ」
しかし早苗はそれを断った。
「何で?」
「これは年に一度よ。それ以外は駄目なの」
バレンタインであるからこれは当然のことであった。
「そんな、それじゃ」
「他のものでいい?」
「他のもの?」
「チョコレートは年に一度だけれど」
早苗は優しい笑みになった。まるで岳を包み込んでしまうような優しい笑みだった。
「他のは何時でも作れるから。それじゃ駄目かしら」
「じゃあそれでいいよ」
岳もにこりと笑った。
「ずっと。僕の為に作ってね」
「ええ」
「そしてバレンタインにはまた」
「わかってるわ」
二人は夜の公園で寄り添い合った。そして淡い恋の中にその身も心も委ねるのであった。
トラブル=バレンタイン 完
2006・1・24
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