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カサンドラ

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第一章


第一章

                   カサンドラ
 この世で最も悲しいことがあるとすると。その一つは誰にも信じてもらえないことだ。それはまさに彼女のことであった。
 カサンドラ。栗色の豊かな波うつ髪に細かい清らかな肌、紅の薄く気品のある口元に穏やかな鳶色の目。トロイアの姫であり絶世の美女でもある彼女はまさにその悲しみの中にいた。
 彼女は美しいだけでなく聡明だった。その賢さでも知られていた。そのうえ彼女は予言をすることができた。しかも只の予言ではなかったのだ。
 必ず当たる。外れることはない。しかしそれを信じてもらうことはできなかった。それには理由があったのだ。
 彼女はデルフオィにて予言の力を与えられた。だが類稀なる美貌を持つ彼女はデルフオィで信仰されている予言の神アポロンに見初められた。彼は予言の神でもあったのだ。
 彼はすぐにカサンドラの側に来て。こう囁いたのだ。
「私の妻の一人になるのだ」
 こう。優しげだがそこには好色が明らかにあった。そんな声であったのだ。
「どうだ、妻になるか」
「いえ」
 しかし彼女は。ここで言うのだった。首を横に振りつつ。
「私はそれは」
「嫌だというのか」
「申し訳ありません」
 俯きながらアポロンの言葉に答える。
「私は。とてもアポロン様に適うような」
「それは違う」
 アポロンはカサンドラのその言葉を否定した。
「そなたは美しい。だからこそ」
「ですが私は神ではありません」
 そう言われても首を横に振り続けるカサンドラだった。
「ですから。私は」
「私の誘いを受けぬというのだな」
「申し訳ありません」
 また言うのだった。
「それだけは」
「そうか。わかった」 
 アポロンはカサンドラの今の言葉を聞いて憮然として頷いた。
「そなたの心。よくわかった」
「申し訳ありません」
「これ以上はいい。私もそなたを求めない」
 その憮然とした顔で告げるアポロンだった。その端整な顔が不機嫌そのものになっていた。
「もういい。早く祖国に帰るがいい」
「トロイアに」
「そうだ。だが一つ言っておこう」
 ここで彼は言うのだった。その憮然としたままの顔で。
「そなたの予言は外れることはない」
「私の予言は」
「その通りだ。必ず当たる」
 また言う。まるで彼女の心にそのまま刻み込むようにして。
「しかしだ」
「しかし?」
「そなたの予言を信じる者はいない」
 言葉に残酷さが宿った。それと共に惨い笑みも。端整なだけに凄惨なものがあるアポロンの言葉と笑みだった。
「決してな」
「決して。私の予言は」
「外れることはないが信じる者はいない」
 あらためてカサンドラに告げてきた。
「決してな」
「そんな。それでは」
「そうだ。そなたの予言は何の意味もなさないのだ」
 これ以上はないという残酷な言葉であり予言だった。予言とは誰かが信じるからこそ予言なのだから。アポロンはカサンドラにこれ以上はない術をかけたのだった。
 だがここでアポロンは思い直した。それではあまりにも惨たらしいと。彼にも自分を振った相手へのあてつけに対する後ろめたさがあったのだろう。ここで言うのだった。
「しかしだ」
「しかし・・・・・・」
「一つだけ言っておこう」
 こうカサンドラに言ってきたのだった。
「そなたのその誰も信じない予言をだ」
「はい・・・・・・」
「信じる者はこの世で一人だけ現われる」
「この世で一人だけ」
「そうだ。一人だけだ」
 彼はまたカサンドラに告げた。
「一人だけだ。その者に会えばそなたは助かるだろう」
「私は・・・・・・救われる」
「その者に巡り合えることを祈るがいい」
 最後にこう告げてカサンドラの前から姿を消すアポロンだった。一人になった彼女は絶望の中に一条の希望を感じながらデルフォイを後にした。そのままトロイアに戻ったがやはり彼女の予言を信じる者はいなかった。
「兄様が戻って来ます」
 彼女はまずこう予言した。
「このトロイアに」
「兄様!?兄様ならもういるじゃない」
「そうよ」
 まず彼女の姉妹達が彼女の言葉を笑って否定した。
「ヘクトール兄様が」
「他に誰がいるのよ」
「それは・・・・・・」
 彼女はその兄の名を知らなかった。だから答えることはできなかった。答えることができないので俯くことだけしかできなくなってしまったのだ。
「ほら、見なさい」
「貴女はずっとデルフォイにいたから知らないのよ」
「そうそう」
 姉妹達はこう言ってカサンドラの今の予言を否定した。そしてこれは姉妹達だけでなく両親も宮中の家臣達も、そして民達もであった。やはり誰もカサンドラの言葉は信じなかった。
「そんな筈がない」
「有り得ない」
 こう言ってだ。彼女の予言は誰にも信じてもらえなかった。しかしトロイアの街の酒場で一人だけこう言う者がいたのである。
「そうだな。戻って来られる」
 彼は言うのだった。茶色の髪を茸に似た形に切っている彫の深い顔の若者だ。その名をイオラトステスという。トロイアの貧しい貴族の息子である。トロイアにおいては軍の士官を務めている。
 彼はその日酒場で飲みながらカサンドラがそのことを予言しているのを聞いた。そうしてそのことを信じずにせせら笑う同僚達に対して告げたのである。
「あの方が」
「あの方!?」
「あの方とは誰なんだ?」
「パリス様だ」
 その名も言うのだった。水で割った葡萄酒を飲みながら。
「あの方が戻って来られる。このトロイアにな」
「パリス様って誰だ!?」
「さあ」
「聞いたこともないな」
 士官達は顔を見合わせて言い合う。彼等にとってははじめて聞く名前だった。だから知らないのも当然だった。しかし彼は知っているのだった。
「それは誰なんだよ」
「トロイア王家の方だよな」
「そうだ。カサンドラ様の仰っていることは正しい」
 そしてまた葡萄酒を飲むのだった。
「きっと来られるぞ」
 彼は酒場でこう言うのだった。だがこのことはカサンドラの耳には入らず彼女はアポロンの言葉を思い出し悲嘆にくれるだけだった。そしてそれから暫くして。
 見事な金髪に黒い目、アドニスを思わせる中性的な顔立ちをした麗しい青年がトロイアにやって来た。その彼こそは。
「パリスです」
「パリス!?」
「まさかそなたが」
「そうです。父上、母上」
 王と王妃にパリスと呼ばれたその若者は微笑みそのうえで二人の前に片膝をついた。そのうえで静かに述べるのであった。
「只今戻りました」
「生まれてから。何処かに消えたと思っていたが」
「どうしてここに」
「これは偉大なるアーレス神から聞いた御言葉です」
 彼はここでアーレスの名を出した。言わずと知れた戦いの神である。外見は美青年だがその性格は粗暴で殺伐としていることで知られている。
 
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