雲は遠くて
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42章 信也の妹、美結に恋人できる
42章 信也の妹、美結に恋人できる
6月15日、日曜日の午前7時半ころ。
よく降っていた雨もなくなって、気温も30度前後の、
よく晴れた日がつづいている。
美結は、食パンに、バターをぬって、とろけるチーズと
イチゴジャムをのせると、こんがり薄茶色になるまで
オーブントースターで焼いて、はちみつをかける。
「お兄ちゃん、イチゴジャム・ハニー・チーズ・トーストパンのできあがり!」
「おおっ、おいしそう!ありがとう、美結ちゃん」
妹と兄は、ゆったりとした気分で、ひのきのロー・リビングテーブル(座卓)に
向かいあって、朝食をとる。
「このジュース、うまい!」
テレビを見ている信也は、美結を見てほほえむ。休日なので、
きのうから髭をそっていない信也だ。
24歳にしては濃い無精髭も、男っぽさと、
頼もしさを感じさせる。
「おいしいでしょう、フルーツがいっぱい入っているからね。
アボカドでしょう、リンゴとバナナにレモン、牛乳とヨーグルトで
つくってあるから」
そういって、4月に21歳になったばかりの美結は、
感受性に富んでいる少女のように目を輝かせて、わらう。
長かった髪を、シルエットもきれいな、ふんわりとした自然な、
夏向きのショートにしている。
テレビは、午前10時から始まる、サッカーのワールドカップ・ブラジル大会の、
日本代表とコートジボワールの試合の特集をしている。
「美結は、沢口くんと、このサッカーをどこかで観るんだよね?」
「うん、明大前のカフェバー・リバー(Cafe Bar LIVRE)で観るの」
「ああ、あそこね。駅から2分くらいで便利だよね。おれも行ったことあるけど。
でも、きょうなんか、よく予約がとれたじゃん」
「沢口くんは、店の常連だもん」
「そうかぁ。沢口くんは、あそこの常連かぁ。彼は、高校では、
サッカー選手だったからね」
「うん。だから、サッカー、大好きなんだよね。だから、わたしも
サッカーファンになっちゃったわ。うっふふ」
そういって無邪気に微笑む、美結の表情には、
始まったばかりのタレントの仕事も、始まったばかりの恋愛も、
うまくいっていて、幸せな気分であることが、そのまま素直にあらわれている。
「沢口涼太くんは、いいヤツだ。彼はなかなか誠実だよ」
「よかった。お兄ちゃんにそういって、褒めてもらえて、うっふふ。
沢口くんと仲よくなるきっかけも、お兄ちゃんのクラッシュ・ビートのことだったんだもの。
お兄ちゃんは、わたしたちの愛のキューピットって感じよ。うふふ」
「まさか、美結の愛のキューピットになれるとはね。兄として光栄だよ。
あっはは。そういえば、涼太くんは、俳優やりながらでいいから、
できるなら、ロックバンドをやりたいって、歌もうたいたいって、
この前、会ったときにいっていたからね」
「だって、涼太くん、ロックやっているお兄ちゃんに憧れてるんだもん」
「そうなんだよな。おれみたいに、作詞や作曲もやってみたいっていってたよ。
彼なら、それも可能だと思うよ。神経も繊細な芸術家タイプだからね」
「涼太くんには、いろいろと相談に乗ってあげてね、お兄ちゃん」
「もちろんだよ」
美結は、ちょっと落ち込んでマイナーな気分のときに、
『いっしょに、がんばってゆこうよ』とやさしく話しかけてくれた
涼太の言葉を、なぜか、ふと思いだして、一瞬、胸を熱くする。
「じゃぁ、わたし、そろそろ出かけるわ。お兄ちゃんも、きょうは、
詩織ちゃんとデートするんでしょ?」
「まあね」と信也。
「Have a good time! (楽しく過ごしましょう!)」と美結。
美結は、水色の無地ワンピース、花がらのスカートのファッションで、
マンションを出た。
下北沢駅から、明大前駅までは、京王井の頭線で1.9キロメートルである。
その区間の、新代田駅と東松原駅を
止まらずに通過する急行に乗れば、3分であった。
明大前駅の改札口で、沢口涼太は、美結を待っていた。
沢口涼太は、エターナルの副社長の新井竜太郎が、この1月に立ち上げた
芸能事務所のクリエーションに所属して、人気を集めてきている新人の俳優である。
2013年に、涼太は、京王線の明大前駅から7つめの仙川駅近くの、
名門の桐宝学園芸術短期大学の演劇専攻を卒業して、
順調に都内の会社に就職しながら、俳優としての道を模索していた。
そして、運がいいのか、今年の1月、たまたま、渋谷を歩いていたら、
数多い芸能事務所の中の、クリエーションの担当者にスカウトされたのである。
この4月下旬、クリエーションで仕事を始めたばかりの美結に、いろいろと親切に
アドバイスとかをしてくれるのが、沢口涼太であった。身長は184センチと、
171センチの美結よりも、13センチ髙いことも、美結にはうれしいことだった。
現在22歳で、1992年、10月8日生まれの涼太は、21歳になったばかりの、
1993年、4月16日生まれの美結の、1.5歳ほど年上である。
「よっ、美結ちゃん!」
涼太は、ちょっと恥ずかしそうな表情で、長い睫の奥の、
キラキラしている涼しげな瞳を細めると、美結を見てわらった。
「涼太さん、お元気そうね!」
自分では制御できないくらいに、うれしさに胸がはずむ美結であった。
≪つづく≫ --- 42章 おわり ---
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