雲は遠くて
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8章 美樹の恋 (その3)
渋谷駅近くの映画館で、『グッバイ・ファースト・ラブ』を観たあと、
美樹と陽斗は、そこからちょっと北(きた)にある、
高山ランドビルの1階にある『ナポリズ』で、食事をした。
「マルゲリータ、焼きたてで、おいしいね」と、笑顔の美樹。
「うん」といって、ピザをほおばり、コーヒーを飲む陽斗。
「ひとを好きになることって、人生の大仕事っていう感じかな」と美樹は
ピザを食べながらいった。
「そうだね、大仕事だね。うまくいったり、いかなかったり・・・」
そういいながら、陽斗は美樹に、やさしくほほえんだ。
なんか、陽斗も、ずいぶん、男として成長した感じがする。
美樹は、四角いテーブルをあいだにする、
陽斗を、あらためて、まじまじと見つめた。
「美樹ちゃん、そんなに、キラキラした目で、
おれを見つめて、急に、どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。ただ・・・」
「ただ?」
「はるくんも、美咲ちゃんと、仲よくしていてたあいだに、
ずいぶん、オトナっぽくなったような気がしてさあ」
「美咲ちゃんには、いろいろ、教わったのかもしれないし」
そういうと、陽斗の瞳が、ふっと翳った。
「まあまあ、男女のあいだって、とても、デリケートで、
神秘的なものなのよね、きっと」
「うん」といって、陽斗はほほえんだが、そのあと、
ちょっとさびしそうに、うつむいた。
美樹は、陽斗の、そんな素直さや、
正直さが、好きだった。
陽斗が、美樹の姉と、急接近して、
仲良くなったり、恋愛感情を抱いてしまったことは、
いまになっては、美樹にも、理解できることであった。
弁護士をめざしていた、姉の美咲の、
生真面目さや、正義感に、
かなり近い価値観をもっている
陽斗が、共感とか、共鳴とか、したのであったから。
陽斗が、美樹の家に遊びに行ったある日のこと、
そのとき、家にいた美咲の持っていた本の、
『これから正義の話をしよう
・いまを生き延びるための哲学』を見つけて、
「これって、ハーバードが大学の、
マイケル・サンデルの本ですよね」と
陽斗が興味を示したこと・・・、
それが、陽斗と美咲の結ばれない恋物語の始まりだった。
「陽斗くんも、こんな哲学のような、
むずかしい本が好きなの?」と美咲が聞くと、
「ええ、哲学大好きです」と陽斗は、
目を輝かせて、答えたのだった。
「正義というのかしら、正しいことというのかしら、
立場によって、いろいろあることが、
よくわかるような、サンデルさんの講義の本だわ。
正義って、そんなふうに、あやういっていうのかしら、
正義も哲学も、むずかしいことだわよね。
終わりのない問答をしていくようなものかもしれなくて。
ウィトゲンシュタインも、いっているでしょう。
すべては、言語ゲームになったのだって。
わたしも、そんなふうに思うの。
そんな、真摯な、ゲームの感覚で、すべてを
楽しむことが、大切なんだろうなって」
そういって、美咲は、陽斗に、やさしくほほえんだ。
そのときの美咲の姿が、陽斗の心の中に、
いつも、思い出されるのであった。
「ウィトゲンシュタイン、おれも好きなんです。
文章が、コピーライターのように簡潔で、
かっこいいですよね。
『論理哲学論考』のラストの
『語りえぬものについは、沈黙せねばならない』なんてね」
そんな会話で、陽斗と美咲は、たちまちのうちに、
心が、うちとけあったのだった。
「わたしも、姉貴には、かなわないけど、
哲学とか、人生について考えるのは、好きなほうよ」
といって、美樹は、陽斗を見つめて、やさしくほほえんだ。
「おれと美樹ちゃんには、哲学とかよりも、アニメや音楽や小説とかの
芸術っぽい話題のほうが、話が合うよ」
「そうよね。わたし、はるくんとなら、楽しい話が、
いつもありそうな気がする・・・」
ふたりは、ピザハウス『ナポリズ』の店内で、
まわりが振り向くような声で、わらいあった。
食事のあと、ふたりは、渋谷駅から小田急線に乗って、
下北沢駅に降りたった。
美樹は、ネイビーのポンチョ風ニットカーディガン、
ペールピンクのブラウスと、
セピアローズのレーススカートといった、
さわやかな春に合ったファッションだった。
陽斗は、ネイビーのデニム・ジャケットに、白のTシャツ、
ベージュのデニムパンツといったファッションだった。
≪つづく≫
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