逆さの砂時計
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思いと望み
子供が走っていく。
熱気を孕む風に短い髪を打ちつけながら、緋い世界を走っていく。
溢れる涙を時々目蓋で弾き飛ばしながら、口を大きく開いて走っていく。
そこから溢れ出るのは、言葉でも歌でもなく、叫び。
腹の底から湧き上がっては喉を切り裂いて音になるだけの。
何の意味も持たない、悲痛な叫び。
「ああああぁぁああぁあぁぁあああああああぁぁぁああああぁぁああ!!」
子供は走る。
ひたすら走る。
冷静に何かを考える余裕は無い。
ただただ、自分がよく知っている場所を目指してまっすぐに走る。
履き物は失い、元々くたびれていた衣服の裾も、木の枝や葉に破られた。
触れるだけで肌を切る尖った雑草が、子供の足を容赦なく斬り付ける。
そうして、そこに着いた時にはもう、全身がすり傷と切り傷だらけで。
疲れと痛みで膝を落としても、頭に浮かんだ意味を持つ単語は一つだけ。
「………て」
荒れて乱れた呼吸が整うのも待てず。
ぜいぜいとひゅうひゅうの間を行ったり来たりする呼気の隙間に。
積み重なってきた思いが零れ落ちる。
「……し、て」
口元が歪む。悔しさを堪えるように、嘆きを呑み込むように、歪む。
赤い空を見上げれば、鳥の群れが立ち昇る黒煙を避けながら飛んでいく。
いや、逃げていく。
我が身を護れと悲鳴を上げながら、どこへともなく逃げていく。
それは子供自身の不格好さと重なる姿で。
見送った子供の思いは明確さを伴い、胸中で爆発的に膨れ上がる。
真新しい大粒の涙が頬の傷口を撫でて地面に落ちた瞬間、子供は吼えた。
「どおしてええええぇぇえええええええ!!」
どうして。
どうして。
どうして。
何故、こうなるのか。
何故、こうするのか。
子供は世界を相手に疑問を投げかける。
幼さ故の純粋な疑問に、世界は何も答えないまま、結果を押し付ける。
結果だけがすべてだと、無慈悲なほど冷淡に嘲笑い現実を証明し続ける。
それでも子供は、くり返し、くり返し問いかけた。
何故、どうして。
何故、どうして。
世界は答えてくれないと、どこかで理解していながら。
もしかしたら世界にも答えられないのかも知れないと、そう思いながら。
それでも訊かずにはいられないのだと、全身で訴え続ける。
さめざめとは泣かない。
失っても喪っても、子供は世界に向かって吼え続ける。
子供が望んで来たその場所も。
結局、何一つ、答えてはくれなかった。
……人間の世界に施した仕掛けが外され始めている。
ベゼドラと、奴と合流したフィレスの気配も消えた。
水鏡の泉の水を利用して動き出したと考えるのが妥当だな。
さて、どうするべきか。
仕掛けを直すのは簡単だが。
そうするには、今のアリアでは使い物にならない。
なにより、わずかとはいえ余計な手間と時間が増える。
『結晶』とクロスツェルの回収を済ませたまでは良かったが。
クロスツェルの死は、予想以上にアリアの足を鈍らせた。
本当に殺していたら面倒なことになっただろう。
マリアとアリアのこういうところは、本当によく似ている。
目元から受ける印象は正反対なんだがな。
気配を消していても、ベゼドラが現れる場所は判りやすい。
今のうちに押さえておけばまだ影響は少ないが、どうにも気に入らない。
クロスツェルが抜けてフィレスが加わったからだとしても。
動きが急に変わりすぎている。
まるで重要な何かを知ったかのような…………
いや、実際に知ったんだろうな。
「お前のせいか、『扉』のマリア」
ひび割れた石床に片膝を突いて、右手のひらを翼の紋様に押し付ける。
クロスツェルの記憶と、『鍵』であるマリアの記憶にあった『階』。
翼の下に『扉』として刻み込まれていた、巫マリアの意思。
あの男の力で留まっていた筈の空間はもう、ここには無い。
血の記憶もまったく気配を感じさせない。
不可動の空間を動かせるとしたら……フィレス。
発した言葉で万物の魂に命令を下していた、あの蒼の女神が。
マリアを具現化させた後で、ベゼドラと同行している。
「フィレス、か」
マリアの記憶がベゼドラとフィレスに伝わったのは厄介だ。
しかし、丁度良く泉で合流してくれたおかげでフィレスの性質は判った。
万霊の言を司る女神とは。
ある意味、完全なアリアよりも目を惹く存在だ。
自我を殺して操れば……
「……それも、完全ではないな」
一瞬は悪くない案だとも思った。
だがやはり、女神はアリアでなければならない。
さて。
フィレス、ベゼドラ、マリアを押さえるのが先か。
それとも、アリアを動かすのが先か。
アリアにも、そろそろ本気を出してもらいたいところだが。
立ち上がって目蓋を閉じ、俺自身の意識を元の器に飛ばす。
「マリ…… ?」
ゆっくり開いた視界を、見慣れた闇が埋め尽くす。
近くに感じる筈の柔らかな熱は無く。
ひやりと冷たい空気が、露出している肌を刺した。
抱き留めていたマリアが居ない。
脱ぎ捨てていた黒い法衣を纏い、ベッドから下りて辺りを見渡せば。
数千年間一度も使わなかった両開きの扉が片方開いたままになっている。
……歩ける余力など残していたのか。
廊下に出てから後ろ手で扉を閉め、彼女が向かったであろう場所へ跳ぶ。
「ここで何をしている、マリア」
「………」
予想通りの場所……玉座の間。
室内の中央で、扉から階段へと伸びる赤い絨毯の上に。
マリアは膝を落として座り込んでいた。
俺と同じ程度に伸びた、長い白金の髪を床に散らして。
背後に立った俺を愕然と振り返る。
「……貴方、こそ…………なにを……しようと、してる、の?」
初めて会った頃よりもずっと艶めかしく成長した肢体を隠そうともせず、両の翼を失ってなお美しい女神は、喉を引き攣らせながら俺に問いかけた。
儚げな印象を与える薄い水色の目が、驚愕と戸惑いに染まっていく。
「貴方、は、アリアで、なにを……っ!」
ぽろっと零れた涙の粒が、闇の中で刹那に光る。
「…………同じ、か」
感情のどこに重点を置いても、マリアは変わらずマリアのままだ。
なら、この先はあの時と同じ。
マリアは怒りと憎しみで狂い、俺はマリアを壊すだろう。
それはそれでも、構わないが……。
「! いや!! 触らないで!!」
「黙れ」
「待っ……つ!」
なけなしの力で両手両足を振り回して抵抗するマリアを肩に担ぎ。
ベッドの横へと空間を移動する。
シーツの上に落とした体が軽く弾んで、小さな悲鳴が虚空に響いた。
「っ、答えて、レゾネクト! あれは何!? どうしてア……っ」
仰向けで押し倒したマリアの額に左手を翳し。
激しく動揺する意識を閉ざす。
見開いた両目から意思の光が消え、彼女の体からも力が抜けた。
無防備な裸体の横に座り、目蓋を閉じさせて、落ちた涙を唇で掬う。
「見届けろと言った。そうでなければ、面白くないだろう?」
望み通り教えてやる。
見せてやろう。
俺と、アリアで。
今度こそ、必ず。
だから、壊しはしない。
壊れるのなら、壊れる前に。
その為に…………
「アリアには、そろそろ自覚が必要だな」
「!」
役員による臨時の会議を済ませて。
午後の礼拝前に一息入れようと、自室の扉を開いた男性が見たものは。
そこに居る筈がない人影だった。
(……なるほど。確かに、これでは参ってしまうのも無理はないか)
一歩踏み入り、他の者が室内を覗かないうちに扉を閉めて、鍵を掛けた。
人影は身動きもせず、男性の顔をじっと見つめている。
「どちらからお入りになられましたか? ……などという質問すら、無粋に思えてしまいますね」
男性が部屋を空ける時は必ず、すべての窓と扉に施錠する。
加えて、扉の外側には常時二名の見張りが目を光らせているし。
窓に面した庭園にも、壁に貼り付いて登る盗賊を警戒する護衛がたくさん居る。
女性、それも彼女が平然とこの室内に居て、騒ぎになっていない時点で、異常事態は始まっていた。
「貴女の御高名ぶりと昨今のお噂はかねがね承っております、女神アリア。本日はどのような御用件でしょうか」
「……貴方は……私の姿を見ても、冷静でいられるのですね。初めてです。こんな現れ方でも、普通に声を返してくださった方は」
それはそうだろうと男性は思う。
女性は美しい。あまりにも美しすぎる。
容姿もそうだが、放つ気配が清浄すぎて現実味がまったく感じられない。
よく見える幻です。と聞かされても、あっさり納得してしまいそうだ。
並の人間なら、おそらく数分間は黙り込んで鑑賞したがるのだろう、が。
「他の宗教関係者がどうかは知りませんが、私はゼクス教団の長として立つ自分に責任と誇りを感じておりますので。たとえ、貴女が正真正銘、本物の創造神だとしても、貴女に仕える気は毛頭無い。それだけの話ですよ」
「……そう……」
おや? と首を傾げたのは、女性がどこか嬉しそうに微笑んだから。
彼女と会った宗教関係者はもれなく改宗希望者に堕ちると聴いたのだが。
どうやらそれは、目の前の女性が望むことではないらしい。
男性はしばらく考え込み、備え付けのティーセットに手を伸ばした。
「とりあえずお茶でもいかがですか? 自家製ではありますが、精神安定と気分転換によく効くハーブがあるのですよ」
「! ……何故?」
「そんなに落ち込んで疲れた顔をしていたら、私でなくても分かる人間には分かります」
美しい女性は、蒼白な顔色でさえ、その美貌の一助にしてしまっている。
これほどまでに憔悴しきっている顔を見ても浮かれるしかできない無能な人間ばかりだったとは、聖職者が聞いて呆れるな。と、男性は苦笑い。
ひとまず来客用の椅子に座らせ、手早くお茶を淹れて差し出した。
浅く腰掛けた女性は、上品な仕草で純白の陶製カップをそっと手に取り。
果物に似た、ほのかに甘い花の香りを確かめる。
「……優しい香り……」
「私のお気に入りです。ゆっくりしていかれると良いですよ」
男性も女性と向かい合って椅子に座り、お茶を口に含む。
ついさっきまで、アリア信仰は危険だ! 放置してはならない! だの、今こそ教団の正しき教えを奴らに示すべきだのと、無責任極まりない発言の嵐に襲われていたせいか、柔らかな喉ごしがいつもより速く体に浸透する。
ふぅ、と息を吐くと、手足の指先まで全身がポカポカと温かくなった。
「美味しい。こんなに優しい飲み物は久しぶり。ありがとうございます」
女性も一口飲んで、わずかに頬を赤くしながら目を細めた。
気に入ってくれたらしいと、男性もつられて微笑み返す。
「こちらこそ、ありがとうございます。おかわりは好きなだけどうぞ」
そういえばお茶に合うお菓子があったなと、男性が立ち上がり。
事務机の棚を漁って振り返ると、女性の姿は忽然と消えていた。
「……お忙しい方のようですね」
四つ足のローテーブルに空のカップを戻し。
その横に、お礼のつもりなのか、白い百合を一輪置いて。
結局、彼女は何をしに来たのだろうと首をひねる。
悪意らしきものは少しも感じなかった。
ただ、そこに居ただけ。
何をするつもりもなく、居ただけ。
「彼女が安らぎを得られると良いのですが」
置かれた百合を手に取り、瑞瑞しい花弁を鼻先に寄せる。
少しだけめまいがしたのは、思ったより強い香りのせいだろうか。
あの人は大丈夫。
あの人には、私に対する敵意も害意も無かったし。
好意も何も無かったから、きっと大丈夫。
温かい。
本当に温かい飲み物は、とても久しぶり。
涙が零れるくらい、温かかった。
優しい人は居る。
どんな世界でも、どんな状況でも、優しい人は必ず居るんだ。
私もそんな存在になりたくて……でも、なれなかった。
「クロスツェル……」
草原で時間を止めたまま眠る男性の冷たい額に触れる。
ぴくりともしない体に、また涙が溢れてきた。
彼の頬にぱたぱたと落ちて弾ける滴は、だけど彼を解かしてはくれない。
私に優しくしてくれていた彼は、時間を進めれば本当に死んでしまう。
もう、笑いかけてはくれない。
大切にしたいものは、いつだって指の間をすり抜けて。
私一人を置いて、消えていく。
いつからだったろう?
世界に問いかけるのをやめたのは。
「クロス…… っ!?」
突然。
クロスツェルの体が目の前から消えた。
空間移動。
理解した瞬間に、彼が連れ去られた場所へ跳ぶ。
「レゾネクト!!」
クロスツェルの体を足元に寝かせて、彼は山中の崖先に立っていた。
遥か遠くまで広がる樹海を背負い、青空に流れる白い雲を翼にして。
悠然と笑っている。
「返して! 彼には危害を加えない約束だわ!!」
崖の上……クロスツェルを落とすつもりなの!?
時間を止めている間なら、何があっても怪我はしない。
でも、レゾネクトは時間を操れる。
もしも動かしてしまったら……!
「レゾ……!!」
数歩先に歩み寄ったところで、レゾネクトの姿が消え……
違う。
空間を跳んで、私の背後に回った。
両腕を封じる形で後ろから抱えられ。
何をするのかと、顔で振り向こうとした途端。
「なっ……、あ!?」
レゾネクトの牙に、首筋を、咬まれた。
皮膚を突き破られた鋭い痛みに、冷えた背中が跳ねて反る。
…………何かが、私の中に入って、くる……?
「……やめ……て……」
これは、なに。
記憶。
誰かの記憶?
痛い。
苦しい。
胸を締めつける、誰かの叫び声。
かつての私とよく似た、絶望と渇望の悲鳴。
「い、や…………! やめて、レゾ……っ」
レゾネクトが私に、誰かの記憶を流し込んでる。
幼い子供の悲嘆が、絶叫が、頭の奥で反響する。
荒れた大地に一人きりの、小さな……
「……あ、ああ……────っ!!」
レゾネクトが牙を抜く。
解放された体が膝を折り、正面から地面に転がった。
…………何故?
どうして私に、こんなものを見せるの、レゾネクト…………
荒れた大地に一人きりで立つ、小さな影。
暁の空を睨みつける小さな、小さな男の子。
やがて地平線に昇った白光が。
闇に埋もれていた短い黒髪と金色の虹彩を、鮮やかに照らし出した。
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