逆さの砂時計
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掛け違えた祈り
頭が、うまく、働かない。
「クロスツェル……」
腕を伸ばして、動かない彼の体を求める。
あの時と同じ。
私の……いいえ。
ロザリアの友達が目の前で殺された時と、まったく同じ状況。
届く距離に居る筈なのに、手が、届かない。
「クロスツェル……っ」
剥き出しの地面を抉るように這う指先。
それを止めたのは、私をじっと見下ろしていたレゾネクトの言葉。
ぎくりと固まる私の横に片膝を突き。
涙も拭えないでいる私の顎を、軽くひねるように持ち上げて。
覗く酷薄な微笑みが、再度同じ内容を告げる。
「……うそ……」
「いいや。俺はすべてを見てきた。お前が泉に隠れてから現代に至るまで、世界がどんな時間を刻み、どんな風に流れてきたのか。だからこそお前には真実を教える。クロスツェルを孤児に追いやった戦争の原因は間違いなく、お前が望んで作り放置した……アリア信仰だった、と」
三十年ほど前、とある王国が自然災害によって甚大な被害を被った。
雨季を迎えても雨が降らずに作物は枯れ。
害虫が黒波を成して家屋を喰い荒し。
家畜は次々と病に倒れ。
遂には貴重な井戸水を奪い合って、国民の命までが秒刻みで消えていく。
他国との工業取引でなんとか繋いでいた経済も、生命の基盤である食糧と水の枯渇ばかりはどうしようもなく。
似たような状況に陥りかけていた周辺各国の支援も期待はできなかった。
事実、なけなしの備蓄や支援物資が、生産の手を止めてしまった国全体を支え続けられる筈もなく。
王国は、飢饉と小規模な暴動のくり返しで、崩壊の兆しを見せていた。
そこに救済の手を差し出したのが。
当時着任したばかりの現アリア信仰総代、レティシア教皇だ。
彼女は女神アリアの名の下に、彼の王国とその周辺へ、惜しみない支援を送り届けた。
まずは、農畜産業が回せなくなった一般民へ。
次に、ぎりぎりの商売でやりくりしていた職人層へ。
アリアシエルが……女神アリアの教義に賛同する国々ができる限り。
少しでも多くの命を救おうと、アリア信仰は必死で支援活動を続けた。
その行い自体に問題はない。
ただし、支援の対象となっていた各国の政治機関がアリア信仰を敵視する宗教を抱えてさえいなければ、の話だ。
彼らは感謝するよりも先に、憎悪とも等しい敵対心を剥き出しにした。
それも道理で。
アリア信仰は当初、各国の支配層に支援を申し入れはしたものの。
どの国からも全面的に拒否されていたのだ。
それでも人々の飢餓を見過ごすことなど赦されないと、レティシア教皇の一声であらゆる策と人脈を労し。
一方的、かつ強引に、貧困層を優先する救助に動いた。
その姿勢が、支配層への敵対行為と受け取られてしまう。
国民の多くが少なくない感謝をアリア信仰へ向けるのも、彼らにとっては危機的な状況で。
結果として、国民の不信を買った彼らの選択は、武力を用いた反乱分子の抑圧と排除だった。
支援活動の為に訪れたアリア信仰の神父達から、物資だけは掠め取り。
自国民の前で吊るし上げては、侵略者の公開処刑と称して次々と殺し。
アリア信仰の施しを受けた者は彼ら同様に処すと、大々的に声を広めた。
それで大人しく涙を呑んだ者が多くいたのも確かだが。
堪え忍んで精一杯生きてきた民の怒りに火を付けたのも事実だ。
『お前達が、私達に何をしてくれたと言うのか!』
そうして怒り狂った民が決起し。
支配層と一般層が割れたところから、悲劇が始まる。
アリア信仰に手を上げたと、後ろ楯の国々も剣を抜き。
交易路の新規開拓……
要は、将来的な商業利権を狙った第三国までが人道保護を唱えて介入し。
敵味方関係なく武器を売り捌いて稼ぐ商人や、戦場泥棒まで現れる始末。
もはや内乱で治まる様相を遥かに超え。
気が付けば、救おうとした筈の国々を中心に、血生臭い戦場が世界各地で展開されていた。
アリア信仰の支援から端を発した、五年にも及ぶ世界大戦は。
混乱の最中、彼の王国の弱体化した支配層の首を捧げた中間層の投降で、一応の落ち着きを見る。
が、ろくな将来図も無いまま指導者が空位になってしまったのはどうにも政治的に間が悪く、首を取ったのがアリア信仰に改宗した信徒、というのもまた、敗戦国側の立場からすれば、頭を痛める大問題だった。
『創造神による粛清と勝利』
アリア信仰に肩入れする形で参戦していた国々が。
『創造神のご加護』を免罪符として利用し。
敗戦国への内政干渉を、誰の目を憚ることもなく堂々と始めてしまった。
複数の国が、それぞれの思惑に則って、様々な主張を押し付け合い。
現地民の疲弊などには目も向けず、利を削り取っては自国へ持ち帰る。
その姿は、水飴に群がる蟻さながらだった。
この時点でアリア信仰の頂点にある者としてレティシア教皇ができたことと言えば、戦争の終結を宣言する……だけ。
長期戦の間にかすれた教皇猊下による親切の押し売りで始まった真相は、当時のアリア信仰を支えていた各国の次期大司教より上位の重役達によって隠蔽され、それなりに老いた現代の司教達でも記憶している者は多くない。
一般に語られるのは、アリア信仰が貧困に苦しむ人々を助けた事実のみ。
実際、最初に救おうとしていた彼の国の民ですら、多くは真実を知らず。
現在でも、レティシア教皇の行いに深い感謝と敬意を捧げている。
「敗戦国の政治体制は各国の主張合戦が長引いたせいで余計な空白を作り、その分の生活負担は、ほとんどそのまま、国民が背負っていた。それでも、アリア信仰の絶え間ない支援のおかげで生き残れたのだと、教皇のおかげで乗り越えられたと本気で信じている者が山ほどいる。どう思う? アリア」
レゾネクトが笑う。
私を責めるように、目を細めて首を傾げる。
「…………っ」
もっと他に、違うやり方があった筈だと思っても、言葉にはできない。
だって、そうなったのは。そう、させてしまったのは。
「お前が逃げたせい、だよな」
震える顎を掴む手が、喉にするりと下りる。
くっ……と軽く押さえられて、違和感を覚えても動けない。
体が震えて、動かせない。
「俺達が悪魔退治に乗じて掲げていた教義は、お前自身が人間の目に見える場所に居てこそ成り立つ物だった。お前が人間世界から姿を隠してしまえば歪みが生じるのは当然だ。現代のアリア信仰はお前が歪ませた教えを正しく守ったにすぎない。現代の代理人は、女神アリアの意思を正しく遂行した。つまり、お前がレスターを」
「やめて……」
聞きたくない……
「お前を敬い、心から愛していたクロスツェルを」
「いや……っ」
聞きたくない! 聞きたくない!!
「罪人にしたんだ」
「やめてぇええ────っ!!」
聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない!!
「耳を塞ぎ、目を閉じて。そうやってまた逃げるのか? お前の願いから。自分が犯した過ちから」
力を込めて頭を振る。
レゾネクトの手が離れた隙に地面に伏せて、耳を隠し、声をさえぎる。
……解ってる。
全部、私が悪いんだって、解ってる。
けど!!
「アリア。お前の信徒達は、本当によく理解している。一度始めたことは、最後まで責任を持ってやり通さなければならないと。プリシラも言っていただろう? 傍観者に徹するなど論外、形だけ通して終わりだなどと思うな。お前は世界を創造した女神アリア。お前の存在で、争いを無くすんだ」
できない。
そんなこと、できるわけがない。
私がこれ以上契約を進めたら、世界が壊されてしまう。
この『 』に、本当に壊されてしまう!
だから、私は……っ
「アリア」
立ち上がったレゾネクトに両の二の腕を掴まれて、無理矢理立たされた。
そのまま頭を抱える格好で抱きしめられ、抵抗も叶わない。
「俺の可愛いアリア。さあ、あの日の願いを叶えろ。お前の力で大切な者を護ると良い。クロスツェルもベゼドラも、世界も。お前が愛するすべてを」
レゾネクトの手が髪を撫で、絡めた一房に口付ける。
……貴方は……いつもそうやって、私を追い詰める。
「クロス、ツェル」
レゾネクトの腕の中から、クロスツェルに目を向ける。
私が苦しめてしまった、小さな小さな少年。
貴方みたいな人が生み出されないようにって……
ずっと……そう、思って、いたのに……。
「……ごめん、……な、さい……」
私こそが、すべての罪の根源。
貴方は何も悪くない。
悪くなんてないのよ、……レスター……
どうして殺し合うの。
どうして奪い合うの。
どうして壊そうとするの。
無い物なら、皆で作れば良い。
足りない物なら、皆で補い合えば良い。
助け合って、支え合って。苦しみも悲しみも、喜びも分かち合って。
皆で一緒に頑張れば良いだけじゃない!
どうしてそれが受け入れられないの!?
何が人間を分けて、潰し合わせようとしているの!?
どうして、隣に居る人の手を取って笑い合うことすら拒むの!?
子供は吼える。
何も答えない虚ろな空間で、ただただ吼え続ける。
自我を持った時に親はなく。
何者とも知れぬ赤子を育てた心優しい老夫婦は、盗人達に殺された。
育てた家畜や野菜や果物は根こそぎ奪い去られ。
わずか数十人が身を寄せて暮らしていた小さな村も無情に焼き払われた。
命からがら、安全な場所へと逃げ延びた幼い子供は。
老夫婦から聴かされていた世界の形を思って、嘆く。
かつて全世界を震撼させていたという脅威は、既にない。
世界中の誰もが、解放の喜びに満ちている。
ならば、何故?
どうして、人間同士で争っているのか。
幼い者や老いた者を見下し。
皆で共有していた領域を占拠しては、自分の物だと主張し。
他人が愛情と手間暇を掛けて作り、育てた物を、横から平然と奪い取る。
子供には、その行動と思考が理解できない。
だから、問い続けた。
泣きながら、世界に吼えた。
『なら、お前が世界を導けば良い』
子供にだけ聴こえた声が、子供の叫びをピタリと止める。
よく知った声。
数年前から聴こえる……
落ち込んだ時も笑っていた時も、ずっと一緒に居てくれた不思議な声。
『護りたいものを護れば良い。俺を呼べ。お前が望む世界を与えてやろう』
「……レゾ……」
男の声はずっと、子供に甘い言葉をささやいてきた。
そう思うなら、そうすれば良い。
願うなら、願うままに行動すれば良い。
そうやって不気味なほど静かに、子供の心を揺さぶり続けた。
子供は、それを拒んできた。
この声はきっと、良くないモノ。
決して耳を貸してはいけない。頷いてはいけない。
そう、頭の奥から感じる警告に従って、頑なに拒絶し続けた。
たまに物を隠されたり、知らない場所へ連れて行かれたりした。
それはそれで楽しかったけれど。
だからといって、決して彼の言葉を受け入れようとはしなかった。
……これまでは。
「貴方は……私に、何を望むの?」
誰も居ない虚空を見上げて問う子供に、声は答える。
他の誰も答えなかった子供の問いかけに、男の声だけが答えた。
『俺の望みは、お前自身』
「私?」
『お前が持つ力、お前のすべてが欲しい』
胸の奥が どくん! と、強く脈打つ。
実の親も、育ての親も。
数少ない友人も、これから先の生き方も。
何もかも全部失った子供を、それでもなお欲しいと告げる声に。
どうしようもなく喜びを感じた。
良くないモノだ。
触れてはダメ、求めてはいけない。
信じたら、絶対酷い目に遭う。殺されるかも知れない。
応えちゃダメ。
…………ああ……、でも……
もしも本当に、今の、この悲しい世界を変えられるなら。救えるのなら。
殺されても、良い。
嘘でも自分が欲しいと言ってくれた、彼になら。
孤独から護ってくれていた、彼になら。
それでも、良い。
「どうすればいいの?」
『契約を。お前に世界を与えよう。お前は唯一の女神として、願いのままに世界を導け。成就の対価は、お前のすべて』
なんて甘美なささやき。
なんて非情な誘惑。
どちらにしても、欲しいと思うものばかりが提示されているのに。
それでもなお『否』と断ち切れる余裕など、子供には残っていなかった。
答えは、一つしかない。
「私は……私はっ! 誰一人として、不当に殺されたりしない、奪われたり奪ったりしない、優しい世界が欲しい! 争いなんか必要ない、生命ある者みんなが優しくいられる世界が欲しい!」
一時でもその場所を私にくれるのなら、殺されたって構わない!
子供は叫ぶ。
世界が平穏な循環に包まれますように。
誰一人として、不当な悲しみに襲われたりしませんように。
『お前に名前を。俺を呼べ……アリア』
『アリア』
名無しの子供に与えられた名前。
偽りの創造神を指し示す、名前。
アリアは一度ぐっと目蓋を閉じ、唇を噛みしめた。
立ち上がり、涙を振り払って視界を広げ、廃墟と化した神殿を見据える。
昔、人間と神々を繋ぐ巫の一族が住んでいた場所。
幼いアリアが、優しかった老夫婦に拾われた場所。
ここから始める。
ここから変えていく。
創造神アリアは、ここで声を上げる。
どうか、世界中の生命が、慈しみと優しさで満たされますように。
「私は創造神アリア。この世界を護り導く者。力を貸して! 私の契約者、レゾネクト!!」
アリアの全身から、紫色の閃光が放たれる。
夕暮れによく似た澄んだ紫色の光はアリアの体を離れ。
一歩手前の空間に、短い金髪と紫の目を持つ若い男性の体を顕した。
「叶えてやろう、アリア。お前の願い、お前の望み。お前が進むべき道は、俺が示してやる」
聴き慣れた声の、初めて見る姿は恐ろしいほどに美しく、どこか虚ろで。
それでも、差し出された手を握り返せば、少しだけ温かく感じた。
アリアは願うままに世界を駆ける。
やがて『女神アリアが統一した世界も、自分の一部だと解釈できる』と。
そう、気付いてしまう瞬間まで。
争いが無い世界への導き手であろうと、本心から願って。
懸命に、跳び続けた。
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