鼠の奇跡
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鼠の奇跡
これは本当にあった話である。まだ戦争の傷跡の癒えぬ昭和二十年代初期のことであった。
世相は混沌としていた。敗戦により価値観が崩壊し、人々はその衝撃に打ち沈んでいた。食べるものもなく家もない。街を行けば孤児達がうろつき戦場から帰って来た男達があてもなく彷徨っている。夫を亡くした女達の中には身を売る者達もいる。胸を張っているのは占領に来た肌の色の違う男達とそれに媚を売る者達ばかりであった。人々ははただその日をどうするか、そして生きることのみを考えていた。三合飲んだだけで死んでしまう酒や三号出しただけで潰れる雑誌が巷に出回っていた。頽廃に善を見出そうとする者達もいた。自ら命を絶つことも珍しくはなかった。混沌として、そして夢も希望もない時代であった。
そんな時代だった。眠ろうにも眠れはしない。絶望と頽廃、そして屈辱に心を支配されている。どうして眠ることができようか。人々は酒に溺れその中に眠ることが多かった。だがそれは真の眠りではない。それでも飲まずにはいられなかったのだ。
この男梶原義直もそうであった。彼は戦場から帰ってきたばかりであった。今は粗末なバラックに一人で住んでいる。
「ヘッ」
彼は今その粗末なバラックの中で一人酒を飲んでいた。進駐軍の酒の残りを適当に混ぜ合わせただけの何だかよくわからない酒である。味はお世辞にもいいとは言えない。
「何だ、この酒は」
その酒に対して不平を言う。
「ワインの味もしやがるしウイスキーの味もしやがる。ビールまで入ってるじゃねえか」
そういう酒であった。そんなものだから少し飲んだだけで酔う。しかも悪酔いだ。だが今の彼にとってはその悪酔いこそが相応しかった。彼自身がそう思っていた。
彼は今まで満州にいた。そこで兵士として赴いていたのだ。
満州は少なくとも南方や本土よりは安全な筈であった。空襲もなければ戦争もない。実際に彼は戦争が終わる直前までは気楽に過ごしていた。あの日が来るまでは。
八月九日。長崎に原爆が落ちた日である。だが彼にとっては別の意味で悪夢の日であった。
国境から突如としてソ連軍が侵攻してきたのだ。それはまさに鉄の嵐であった。関東軍は為す術もなく崩壊した。そしてそこにいた日本人達はソ連軍の獣達の餌食となった。その光景は酸鼻を極めるものであった。
彼はその中を必死に南に向かっていた。彼のいた部隊は全滅し崩壊していた。従って彼は着のみ着ままの状態で逃げるしかなかった。誰も彼を守ってはくれなかった。守ってくれるのは自分だけであった。
その時のことはよく覚えていない。ただ人々の泣き叫ぶ声と逃げ惑う顔だけが脳裏に焼きついていた。気がついた時には彼は福岡の港にいた。
それから電車に乗った。一日
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