第二章:空に手を伸ばすこと その五
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・・・・・・・・・え?ゴキブリって・・・憚りや台所とか関係なしに出て来るっていう・・・」
「ええ。黒い身体に二本の触覚。それで蠢くんですよね?それ、カンペキにゴキブリです」
空気が死んだ。曹操は仏像を思わせるような静謐さに満ちた表情をしながら仁ノ助を見詰める。ただ、その表情は悟りを覚えたものというよりは、考える事を放棄したと言った方がよい、呆けたものであった。ただの出来心から主の誤りを訂正した仁ノ助はいたたまれぬように口を真一文字に閉ざし、しかし彼女の虚空を見るような瞳から目を逸らせないでいた。なんというか、視線を離したらきっと落涙するだろうという、そんな思いが生じたためであった。暁光に照らされる彼女の容貌は美しいものであったが、煤けたような哀愁が漂うものでもあった。
数分間の沈黙が数時間のように感じられた。曹操は再び街並みを見遣り、そこに吹き抜ける順風によって髪をさらさらと靡かせた。ふと、穏やかな笑みを零すと彼女は振り向く。悲愴さが滲んだ顔に慧卓は「あっ」と声を漏らしてしまった。
「・・・これから皇甫嵩将軍と朱儁将軍との会議があるから」
「は、はぁ・・・いってらっしゃいませ」
「・・・世の中って残酷ね」
曹操はそう残して立ち去っていく。足取りも心なしか落ち込んだもので、仁ノ助は彼女の背中を見送った。慰めた方が良かったかもしれないが、あの哀愁を解消する程のものなど思いつかなかったのだ。世の中、知らない方が良かった事も多い。彼女はそれを心より痛感し、慧卓はお喋りな自分の口に反省の念を送った。
刃の上に乗っていたカナブンがかちかちと羽を鳴らした。仁ノ助は思い出したようにそれを見遣ると、その冤罪を晴らすべくそらに剣を掲げた。
「よし、カナブン。お前は無罪放免だ。飛んでいけ」
宣告を受けて、『やっとこさ自由になったべ』と言わんばかりにカナブンはうんと身体を伸ばし、空高くに向かって羽ばたき始めた。ささやかな風に揺られながらカナブンは城より降り立ち、長社の街並みに向かって身を溶け込ませていく。明るい陽射しが身体に跳ね返り、あたかも虹を彷彿とさせる色彩を宙に放っていた。
これより宮仕えとなる自分と比べて、何と自由気儘な姿であるか。短剣を仕舞いながら仁ノ助は暫し虫が消えた方を眺めていたが、いつまでもこうしているわけにはいかず、背筋を正して踵を返す。客将なりに出来る事はやる心算である。仁ノ助は主の許しを得るべく、なるべく早足で曹操の背中を追い掛けて行った。
辰野仁ノ助はかくのごとき顛末を経て、中原の歴史を飾り立てる大乱世への一歩を踏みした。彼は新しき生を受けたような気持ちで、この世界を歩んでいく心算であったのだ。そこに待ち構える試練の壁も、必ず乗り越えてやろうという気概が彼にはあった。まだ、その時には。
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