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『ピース』
『ピース』
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それが甘い果実に見えてくる。夢をたっぷり吸い込んだ、グラマラスな黒い肌。肉を味わえ。黒く輝く甲虫のような魅力。肉の痛みが花を咲かす。果実を求めるこの身なら、味わい深く世界に響くだろう。

 教室の端っこで『彼』が蹴りを何発も喰らいながら、泣いている。嗚咽と悲鳴が耳に響く。その声に肝を冷やしながら傍観をしているうちに、怒りが爆発したような一撃が『彼』の柔らかい腹部に。『彼』の体から声にもならない悲痛。僕の胸には嫌悪の手触り。『彼』の顔は溶けるようにゆがんでいる。形ある物が壊れてゆく時の軋む音。魂が肉体の我慢を支えきれなくなって崩壊してゆく音。ミミズの中身が出てしまったような衝撃。もろとも消え去るがいい。狭い産道から世界に飛び出すように、僕の魂が出口を求めた。僕の左フックは誰かの顔にめり込んで前歯のでっぱりが拳に当たった。僕の体に響く肉のさざなみ。殺すぞ。そう叫んで夢から醒めた日は、『彼』が誇りを取り戻しつつある、ある初夏の日だった。拳に痛みがあった。机を殴ったのだろう。サンドバッグを叩き始めてから半月が経った。夢の中でもボクシング。そんな男になりました。
 『彼』は昨日、中学生のカツアゲを見事に退散させたらしい。自慢の右ストレートを披露している。その事で教室は健康的な明るさを含んで輝いていた。
 町君に想いを寄せる女子に「好きだって言ってあげなよ」と言った。何故そんなことを言ったのだろう? 廊下のロッカーの前で僕たちは話す。彼女は困惑とてらいを含ませて笑っていた。幼い、柔らかい笑顔。「好き」の向こうに何があるんだろう。
 午前中の授業、もう汗なんてかかない。相変わらずの読字障害は、軽い肌荒れを気にする程度のもの。空気は薄くない。当たり前だ。ここは宇宙じゃないのだし。そう、僕はみんなと同じ山を登ることをやめ、下りていったのかも知れない。空気、薄くない。
 昼休み前に買い食いに行く。途中、町君が僕の顔を見て「頬、こけたんじゃない?」と訊いてきた。「後で教えるよ」そう返した。誰にも触れられることもなく自尊心を太らせている僕は、実を言うと、自分だけの山に登りたいのかも。そこで一人で雄たけびをあげる。一人で歩いた道で作り上げられる心は、誰も推し量れない。いいじゃない。
この数週間、顔の造作が変わってゆくのが気持ちよかった。眼の奥の脂肪がなくなったせいか、眼窩の輪郭がくっきりして、目の玉が落ち窪んだ。僕は自分が繊細であることを知っているから、その真反対の粗野な力を手に入れるのがなんともいえない快感だった。繊細かつ豪胆。うれしくなる。「なぁ町、近いうち二人目出来るよ」
 窓の外を眺めている。窓下の景色に町君はもういない。町君はクラスの仲間と笑いあっている。『棘』のある視線は、静かな湖面を一時揺らした鳥の旅立ち。時が経って凪。僕は夏が恋しい。はじめてのことかも
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