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『ピース』
『ピース』
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しばらくして、母さんが家を出て行った。
「三十万」と母さんが言った。「それだけあれば十分でしょ?」
 その頃には、もう父さんは仕事を辞めてしまい、家計は母さんの収入で支えられていた。父さんは警備会社の管制の仕事をしていたが、いつの日か現場の警備員になり、またいつの日か仕事に行かなくなってしまっていた。そのことについて、僕はなんとも思わなかった。他人事だったかもしれない。父さんの心の有様になんともアクセスが出来なかった。まだ、その頃には父さんも張りがあったし、日焼けのためか精悍さもあった。でもそれはかなりつらいことだったんだな。今はそう思える。衰えるものへの慈愛なんてものだろうか。
 因果関係は分らないが、そんな、かなり大きな出来事の後に、僕に読字障害が出てしまった。だからさ、父さん。父さんの詩、読めないんだよ。明日は追試なんだよ。

 何度も赤点の答案を見直し、追試の準備をする。文字は大まかに了解の範囲に入ってくるものの、油断するとそれは意味をはがされ、単なる白と黒の抽象画のように見えてくる。焦点がずれて、文字の向こう側の世界に行ってしまう。その世界に何があるのかと言われれば、無我の境地と言っておこう。何度も同じ文章を読み、歩きなれない街を目的地までたどり着くような疲弊を感じる。
 この「障害」の利点を挙げておこう。だるい感じで授業を受けていた中学時代のお馬鹿さんの気持ちが少しわかる。そして己を儚むワビサビの心が生まれる。おじいちゃんだな。つまりは。
 携帯に着信。母さんからだった。柔らかな声の裏にとげがあった。
追試なんでしょ? 大丈夫なの? 今度、様子見に行くからね。 家事を押し付けられてない?
心配なのかな。母親だから当然なのかもしれないが、その声は僕の心を遠くの景色に追いやって、何も染み入ってはこなかった。むしろその声の向こう側に、父さんの凋落を責める心があるのではと、勘ぐる。胸が悪くなり電話を切るタイミングを計っていた。
「追試、受かったら電話する」母さんが会社の上司の話をしているとき、そう切り出して電話を切った。その上司は上昇志向が強くて、そういう人間が人を引っぱって行くのだとか。

母さんの家を出て行ったときのあの顔。父さんを恫喝した時のつりあがった目。たるんだ頬肉の奥で引きつる筋肉。母さんはこう言ったんだ。
「堕ちてゆくのはいいけど、そばに居て癒してあげようとは思えないから。そんな若い夢にひたれるほど、世の中は甘くないこと知っているでしょ? あなたの意識の真ん中から、大事な物が抜け落ちて、私を引きずり込もうとしているのを感じるのよ。渦を巻いてね。渦を巻いてねっ!」

『大事な物が抜け落ちて』

大事な物は僕の中からも抜け落ちているじゃないか。

 僕は母さんが置いていった姿見に体を映している。一枚一枚、服
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