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無明のささやき
第五章
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  雑多な思念が、目まぐるしく耐え難い速度で駆け巡る。それは音と映像を伴い、目の前に展開している。目で見ているのは部屋の現実の光景であり、フラッシュのように浮かび上がるのは心に映し出された光景なのだ。まさに不思議な状況である。
 ゆっくりと動くものを視覚が捉えた。液体に満たされたグラスがスローモーションのように目の前に迫ってくる。グラスが歯に当ってカチンと音がして、アルコールの蒸発する感覚が唇に広がった。アルコール度50%のテキーラだ。
 佐久間は自分の内にある狂気を眺めていた。その狂気の始まりは4年前である。最初のうちは、焦燥にかられ異常に神経質になっている自分を意識する程度だった。遅々と進まぬリストラに経営陣が苛立ちはじめた頃だ。する事成す事、けちが付きはじめていた。
 焦燥は、体中を駆け巡る細かな振動のように感じられ、次第に耐え難いものとなっていった。睾丸の後当りがじくじくと疼き、心の奥深くから不安が舞い上がり胸を締め付けた。そして孤独と絶望が佐久間の許容度を越えた時、意識の流れが一挙に加速したのだ。
 そしてそれが普通の状態となった。この状態を分かりやすく表現するなら、一匹の極小のハエが脳の内側に迷い込み、出口を捜して絶えず急激な速度で飛びまわっているような感覚である。しかもそのハエは言葉であり、思考なのだ。
 まだ章子と一緒だった頃、思考が急速な勢いで駆け巡る脳をぼんやりと意識しながら、章子に聞いたことがあった。
「今の俺って、見ていて、どっか変か?」
章子は笑いながら首を横に振った。くるくると頭の中を飛びかう意識が、静寂のなかに佇む愛しい章子を捉えていた。今はその章子もいない。寒々しい6畳一間の部屋全体が脳の振動に合わせて震えて見える。
 その雑多な思念は脈絡もなく次々と現れては消える。それは時にリアルな映像と音声を伴い、時系列を無視して交錯し、その度に佐久間は胸を締め付けられ、涙を流し、そして絶叫する。そんな、のた打ち回る自分を、ウイスキーを飲みながら、静かに眺めていた。
 ふと、この狂気から逃がれたいという思いが沸き起こった。今なら間に合うかもしれない。このままでは身の破滅だ。しかし、そう思ったのは一瞬だった。むしろ待ちうける悲惨な未来こそ自分には似合っている。そう感じたのだ。
 現実をまともに受け止めるには重過ぎた。それまで挫折したことなどない。早稲田大学を首席で卒業し、会社では前社長に見出され、エリートとして育てられた。誇りある地位に就き、美人の妻を娶り、そして可愛い子供も授かった。
 一瞬にして全てが失われたのだ。仕事も家庭も、そして誇りさえも。女房の顔が浮かんだ。溌剌とした明るい笑顔だ。その顔が一瞬曇って、視線が揺れた。佐久間が5枚の保険証書を突き出し、心なし震える声で言った。
「この保険証書は何だ。しかもこの
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