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無明のささやき
第一章
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 うっすらと朝靄のかかる麦畑に、曲がりくねった細い道が続く。アスファルトのそこここが剥がれ、埋められた礫石が顔を覗かせている。そんな道を一人の男が肩を落とし、足を引きずるように歩いていた。
 眉間には深い皺が刻まれ、切れ長の目は何かを睨みつけるように見開かれているが、その視線の先に見えるものといえば靄の棚引く雑木林くらいなもの。朝まだ早く、聞こえてくるのは男の靴音だけだ。
 男の風体はビル街を闊歩する洗練されたビジネスマンを思わせ、どう見ても麦畑にはそぐわない。長い脚を持て余し、何度か躓きその都度深いため息をついた。ふと歩を止めると、鞄を左手に持ち替え、ハンカチで額の汗を拭った。
 昨夜からの雨は今朝方あがったばかりで、麦畑はひさびさに潤いを取り戻し、生き生きとその穂先を揺らしている。一瞬、雲間から陽光が差し込み、光は、瑞々しい穂波に反射して畑全体を黄金色に輝かせた。
 男は、目を見張りその光景を眺めた。子供の頃、何度も見た記憶がある。懐かしさがこみ上げて来たが、ふと、別の思いが流れ込み、その感動は瞬く間に疼きに変わる。男の視線は虚空をさ迷い、その間にも雲は閉ざされ一瞬の煌きは失われていた。
 男の名前は飯島仁、42歳。突然の人事異動で、ここ秋津の関東資材物流センターの所長に任ぜられた。資材センターの横には産廃廃棄処理場が併設されており、独特の臭いを漂よわせている。今日は飯島の初出勤である。
 重い足を引きずること20分。ふと見上げると、濃い緑の一角に灰色の砂山と赤茶けた鉄骨で組まれた櫓が顔を覗かせ、その先にはコンクリートのブロックや管渠、ブルドーザやクレーンが群れをなしている。その500メートル先に倉庫のような事務所があった。
 バスを使わず駅から歩いたのは、誰とも顔を合わせることなく、惨めな思いを一人噛み締めるためである。守衛の最敬礼に軽く応え、重い足取りで通用門を通り過ぎ、飯島は誰もいない事務室に向かって歩いた。始業時間の一時間も前だ。
 事務所に入り、椅子にどっかりと腰を落とした。そこは、広さ二十畳ほどで、床には安手の合板が敷き詰められ、配線のケーブルモールを剥した跡が所々黒く変色している。飯島は期せずして深いため息をついた。
 ここが最後の職場になるかもしれない。そんな思いが、寂寞とした心をさらに萎えさせる。しかし、次ぎの瞬間、突如として後頭部を突き抜けるような怒りが襲ってきた。飯島は拳を、どんと机に叩き付けた。

 飯島の勤めるニシノコーポレーションは、堅実経営の中堅ゼネコンと業界では高く評価されているが、内情を知る飯島は、いつ潰れてもおかしくないと危機感を募らせ、ここへ異動が決まる直前まで、それこそ死に物狂いで受注活動を展開していた。
 三年前、会社を牽引してきた創業者社長が会長へ退いたが、業界では院政を敷いた程度にしか
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