第三部 1979年
戦争の陰翳
隠密作戦 その3
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敦賀港は、日本海貿易の一大拠点で、古代から国際都市であった。
先史時代より海運が盛んで、朝鮮半島や支那大陸の玄関口でもあった。
江戸時代には北前船の発着点となり、畿内(関西方面)と蝦夷地(北海道方面)の交易になくてはならない交通の要衝であった。
近代以降は、鉄道網が整備され、鉄道と船での物資輸送の拠点として栄えた。
1899年以降は、国から開港場(国際港)の指定を受け、ウラジオストックからの直通便が来るようになった。
そして、人道の港と称される歴史もあった。
1920年代のソ連革命の際のポーランド孤児の上陸地点や、1940年のリトアニアにいたユダヤ人難民の中継地の一つなどである。
日本政府が関わったポーランド孤児の問題や、杉原千畝の命のビザの話は雑多になるので後日改めて話したい。
さて、ソ連が何故、総領事館をここに置いたか。
敦賀が、ウラジオストックやナホトカからほど近いという事情があったからだ。
大量の工作機材や人員を船で速やかに送り込むことができるためであった。
我々の世界では、昭和19年に対ソ情勢悪化を理由に閉鎖された。
冷戦中、ソ連は日本海側に総領事館の建設を望んでいた。
ソ連崩壊後の1991年に、新潟へ総領事館を置いている。
設置理由は、ロシア人の個人輸入業者や湾港労働者が新潟港に出入りする為だった。
多くのロシア人湾港労働者に紛れて、対日有害活動をしている拠点と今日では考えられている。
史実より再び、異界に目を転じてみよう。
領事館の地下にあるガラス張りの電算室を、外から覗く者たちがいた。
ソ連戦術機技術者のスホーニーと、GRU工作員の男だった。
「それにしても驚いたな。
天才戦術機設計技師として知られていたフランク・ハイネマン博士……
しかも、こんな形でお目にかかれるとは」
「蛇の道は蛇。
スホーイ博士だって国内では権威じゃないですか」
ハイネマンは一心不乱に図面データを電算機上に書いていた。
当時は三次元CAD・CATIAは存在したが、フランスの航空機メーカー・ダッソーの秘密特許だった。
1977年に実用化するも、市販される1981年まで一般には流通しなかった。
それゆえ、1960年代に出来たSketchpadでの製図が一般的だった。
「私は熟練の設計技師にしかすぎん。
彼の独創性とアイデアには遠く及ばない……」
ソ連では、青焼きの図面が一般的だった。
電子計算機の普及が遅れていたこともあるが、最新機器はロシア人の考えにはそぐわない面もあった。
過酷な環境で暮らすことを余儀なくされたロシア人は、用心深い性格だった。
最新の精密機器の故障は、氷点下20度を下回る環境では死に直結する。
そういう考えの元、開発から15年から
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