第三部 1979年
戦争の陰翳
険しい道 その3
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駄に大きく重たくて扱いづらい者ばかりが生産された。
高価格の部品や重量のある製品ばかりが重要視され、生産現場や国民の需要などを無視した生産が続けられた。
その結果、劣悪で画一的な工業製品が、大量に作られ、店頭に出された。
その様な粗悪な製品が売れることはなく、各国営企業は山の様な在庫を抱え、倉庫に積まれた。
1970年代のソ連では、各企業は新商品の開発よりも、倉庫づくりに余念がなかったという。
どれほど劣悪だったかといえば、火の吹く冷蔵庫に、割り算のできない電卓、サイドブレーキのない自動車などであった。
極めつけは、発射すると戻ってくるミサイル、居住性も悪く安全配慮のない戦車などである。
ソ連の工業製品の品質への無頓着は、軍事品であっても同じであった。
戦術機は電子部品の塊で、それを操縦する衛士は多額の費用をかけて育てたエリートである。
簡単に墜落することがあっても仕方がないが、脱出に失敗し、簡単に死なれても困る。
一応管制ユニットは米国製の物を使用していたが、安全装置は軽量化のために省かれていた。
一応脱出装置はあるが、英国製の無断コピー品で、脱出速度は20G以上の危険なものであった。
通常、西側では12Gほどであっても、脊椎損傷の恐れがあるので、いかに安全に脱出させるかを重視していた。
だがソ連では非常時に20G以上の圧力がかかり、むやみに使えなかった。
みだりに脱出せず、命を賭して機体を持ち帰れという冗談が出るような代物だった。
「問題はどうやって、ブリッジス女史に接触するかだ」
議長はそういうといつになく真剣な顔で、ゴロワーズの両切りを口にくわえた。
火をつけると、部屋中に黒タバコの何とも言えない香りが漂う。
ミラ・ブリッジスの名前は、東側でもつとに知られていた。
ハイネマン博士の若い助手の一人として、F‐14の設計に関わったという新聞報道を通じてである。
議長自身も、ライフ、ルックなどの写真週刊誌を通じ、米軍の戦術機開発の流れを把握していた。
ニューヨークタイムズやシカゴトリビューンの記事を基にしたシュタージのレポートも、毎週のように届けられていた
後に明らかになることだが、ルック誌の編集部にはKGBの影響下にある人物が出入りしていたと、ユーリ・べズメノフが米国亡命後の1983年に明らかにしている。
中佐の意見は簡単だった。
ミラ・ブリッジスが篁祐唯と結婚し、日本にいることは確実である。
そこで、新聞や雑誌社の記者を装ったシュタージ工作員を送り込み、ミラと会見させるという内容の事を告げた。
議長はその秘密工作に一抹の不安を感じたが、政治局員たちは賛成の意を一斉に表明する。
そして、G7東京サミットに合わせた議長の日本訪問と並行して、密使が派遣さ
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