第三部 1979年
戦争の陰翳
険しい道 その3
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鉄所連合体の計画都市として設計され、当初の名前はスターリンシュタットだった。
1961年に鋼鉄の山を意味するアイゼンヒュッテンと改名され、フュルステンベルク(今日のブランデンブルグ州オーデル・スプリー郡)と合併した。
住民は、この長い名前を嫌い、単純にヒュッテと呼んだ。
ヒュッテとは、独語で山小屋の意味である。
ヒュッテ修理工場は、後に、東独初の兵器工廠となった。
これは、米国の圧力を受け、ソ連は許可したものであった。
シュトラハヴィッツ少将と、ブレーメ通産次官の活躍も大きかった。
兵器工廠だが、部品は国産化が思うように進まなかった。
ほぼすべてソ連本国から運び、組み立てのみを行った。
当時の東独の技術水準では、精度の高い部品を製造することはできなかったからだ。
東独の軍備強化と反乱を恐れたソ連の意向により、軍備増強は制限されていた。
自国生産できる武器は自動小銃、光学機器も双眼鏡のみという厳しいものだった。
何よりも、航空機設計のノウハウが失われ、戦車の部品すら作れない状態だったのも大きい。
東独には、近代的でシステマチックな機械工業がなかったからだ。
様々な思惑の結果、東独に許されたのはノックダウン生産と呼ばれる方式の物であった。
我々の想定している工業製品のライセンス生産よりも低水準の方法だった。
では、ノックダウン生産とは何者か、ご存じではない読者も大勢いよう。
簡単な説明を著者から許されたい。
ノックダウン生産とは、半完成品の段階で輸入した工業製品を輸入国の向上で組み立てる事である。
戦後日本では、自動車を生産する能力がなく、止む無く政府はノックダウン生産を受け入れ、段階的に自動車製造技術を獲得した。
三菱、日野、日産、いすゞの自動車メーカー各社は、英米の優れた技術とノウハウの提供を受けた。
それぞれ、ジープ、オースチンA40サマーセット・サルーン、ルノー4CV、ヒルマンミンクスなどである。
(ジープとルーツ自動車はかつて存在した自動車会社で、米国のクライスラー傘下となった。
オースチンは、その後英国企業を転々とした後、BMWに売られ、今は中国の南京汽車の商標である)
その後、日本はライセンス生産ではなく、独自の自動車技術を発展させていくことになる。
詳しい話は、後日改めて紹介するとしよう。
ソ連がなぜ自国で戦闘機や戦車を開発できるのに英米の技術を盗むのに腐心したのであろうか。
それは共産圏で、致命的なエレクトロニクスの遅れがあったからだ。
ソ連は、政策として質よりも量を重視した。
重量ベースの年間生産量を設定し、過酷な生産ノルマを自国民に課した。
その結果、ソ連の工業は重厚長大と呼ばれるものであった。
聞こえはいいが、経済的な効率を無駄にしたもので、無
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