第三部 1979年
戦争の陰翳
東京サミット その1
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ていた。
(東ベルリンには、幹部とシュタージ専用の第一政府病院と、芸人などの自由業者向けの第二政府病院があった。
そこに勤務した人物の証言によれば、一般病院の5倍の数の薬剤が揃っていた。
全国より選抜された優秀な医師と看護婦が24時間体制でおり、高額報酬が支払われていた。
ソ連や東欧製の医療機器ではなく、最新の欧米製の医療機器が備えられていたという)
そして褐色の野獣は、長官の手づからによって死刑を宣告され、毒杯を賜った。
この一連の簡易裁判は、議長もSEDもあずかり知らぬ場所で起きた惨劇だった。
SEDは、事実を隠蔽すべく、虚偽の報告書をまとめた。
シュタージの公式見解では、アクスマンの死因はソ連兵による銃撃が元とされ、最終的にKGBの責任とされた。
アクスマンの遺体はほかの犠牲者と共に国葬され、遺族には僅かばかりの見舞金と勲章が送られた。
まさにソ連が行った「殺した後に祀り上げる」というKGB機関の伝統行事が、醜悪な形で再現されたものだった。
結論から言えば、その新聞に書かれたことは、根も葉もない事実だった。
日本と西ドイツの関係悪化を狙った何者かがアクスマンという男の名前を借りて作った偽情報だった。
「こいつは、中々の出来だろう。
早速、今日発売のソ連の月刊誌、「新時代」に、紹介記事が載っているという具合さ」
ソ連時代からあるロシアの月刊誌新時代は、今でこそ反体制的な雰囲気の雑誌だが、ソ連時代は違った。
ここの海外特派員はKGB第一総局対抗諜報部選り抜きの将校であり、多くが非合法工作員だった。
後に日本を騒がすこととなったレフチェンコ事件のレフチェンコ少佐は、モスクワの東洋学院の出の日本専門家だった。
1993年に亡命先の米国で没したべズメノフによれば、東洋学院の生徒の75パーセントがKGB将校だったという。
教授や講師も無論、KGB将校で、その多くが定年者やスパイであることが発覚して引退した者たちだった。
スパイであることが外国の捜査機関により発覚したものの事を、KGBは感光と呼んでいた。
これはフィルム式カメラのフィルムが、太陽光線の作用を受け、化学変化を起こし、使い物にならなくなったことに由来する言葉である。
つまりKGB将校という身元が割れてしまったので、スパイとして使い物にならなくなったことを指し示した。
諜報員と思しき男は、断片的な情報しか言わなかった。
マサキは、その偽記事の出どころが気になっていた。
金剛飯店自慢の中華の味も、食事と一緒に饗された酒の味も感じなかった。
ホープの箱からタバコを抜き出すと、使い捨てライターで火をつける。
かすかに感じる蜂蜜の風味を味わいながら、思考を再
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