第三部 1979年
姿なき陰謀
権謀術数 その3
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、そしてF−4、F‐5などの最新鋭ジェット機である。
パーレビ国王は、戦後急速な経済発展を進める極東の小邦、日本の姿に注目した。
ケネディ政権からの要求にこたえる形をとって、日本をモデルとして、急速な近代化政策を進めた。
イスラエルとの国交樹立、婦人参政権の許可、土地改革や国営企業の民営化である。
特に、ヒジャブとよばれるスカーフの着用廃止例は、保守的な地方やイスラム法学者の反発を招いた。
後に、ホメイニ師による、イラン革命と呼ばれる一連のクーデターを招くことになった。
現実世界の史実を振り返ってみたが、さて異世界において、1979年の段階でなぜ帝政イランが存続しているのかという疑問をお持ちの読者もいよう。
ここで、端的に帝政イランが存続できたかを説明したい。
イラン革命の発端の地とされるマシュハドは、1974年にアフガニスタンとソ連のトルクメン(今日のトルクメニスタン)からBETAが進撃してきたことによって荒廃してしまった。
イラン軍の航空波状攻撃や、ソ連からの核飽和攻撃もむなしく、同地にハイヴが建設された。
その際、イラクに亡命していたイラン革命の首領であるホメイニは、不慮の事故に見舞われ、亡くなった。
通夜当日に、何者かによって彼の首が持ち去らわれ、5000キロ離れたパリのベルサイユ宮殿の前にさらされるという事件が起きた。
一説には、イランの情報局員による暗殺とも、CIAによる殺害ともいわれているが定かではない。
前年イラクにいたホメイニの長男が、不審死した事件があったばかりである。
マシュハドという根拠地とホメイニという思想的な柱を失ったイスラム革命をもくろむ反体制派は、次の指針を示せなかった。
BETA戦争の混乱の渦に巻き込まれる形で、彼らは歴史の闇へと消えていった。
イランはイスラエルに次ぐ親米国家であり、中東第二の空軍力を持つ近代国家である。
そしてトルクメン方面やアフガン方面から南下してくるソ連を押しとどめる防波堤でもある。
米国は早くから対ソ防衛網の拠点として、軍事力の強化を進めた。
新型兵器の供与は、1972年5月のニクソン大統領のイラン訪問時に決定していたことであった。
イランは隣国ソ連から度々領空侵犯をされており、ノースアメリカン製のF‐86戦闘機では対応できなかった。
ソ連の高高度偵察機を撃墜する兵器の提供は、同年11月には議会を通り、1973年の春の段階では装備と人員を送るばかりであった。
しかし、事態は暗転する。
1973年4月のBETA侵攻である。
新疆から全世界に向けて進撃するBETAを受けて、米軍はソ連に新型の戦術機を供与し、隣国イランにも同様の措置を取った。
F−4、F‐5などの最新鋭戦術機だけではなく、開発中のF-14まで供与す
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