第二章
[8]前話
「見えてな」
「それで、ですか」
「慌てて逃げたんだよ」
こう言うのだった。
「ここまでな」
「そうだったんですね」
「ああ、しかし九州にはか」
「熊いないですよ」
「じゃあ俺が見たのは何だったんだ」
「あれじゃないですか?」
小林は丁度二人の後ろに出た生きものを指差した、それは。
鹿だった、角はないが黒っぽい毛でがっしりした体格だ。その鹿を指差して言った。
「咄嗟にだと熊と見間違えますよね」
「あれか」
「はい、まあ見間違えますね」
「鹿も野生だとごついしな」
「遠くからとか咄嗟だと見間違えますね」
「ああ、トイレしてるとな」
それならというのだ。
「そこでいきなり出て来たら」
「熊と見間違えますね」
「全くだよ、しかし我ながら慌てたな」
男は苦笑いで言った。
「とんでもない醜態だよ」
「まあそういうこともあるってことで」
「そう言ってくれるか」
「はい、兎に角九州に熊はいないんで」
「そのことは頭に入れておくな」
「そうしますね」
「それじゃあな」
こう言ってそしてだった。
男は小林に深々と頭を下げてその場を後にした、そして。
小林は山菜集めを行ってから部員達と合流しキャンプ場に戻った、この話は話さなかった。そのうえでキャンプを終えてだった。
後でだ、工藤から言われたことがあった。それはというと。
「ニホンオオカミが九州にですか」
「まだいるって話がな」
「あるんですね」
「どうもな」
「そうなんですね」
「まあ狼は人を襲わないからな」
工藤はこのことも話した。
「いてもな」
「何でもないですね」
「それより怖いのは毒のある生きものとかでな」
山の中ではというのだ。
「生きものを間違えて対応することだよ」
「ですね、俺も気を付けます」
間違えて対応と聞いてあのことを思い出してだった。
小林は思わず笑った、だが工藤はそれを自然な笑顔と思って気にしなかった。結局山の話は誰にも話さず彼と名前を知らないあの男だけの話になった。
山で前を出して 完
2023・3・21
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