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曹参伝
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軍を討った。
淮南(わいなん)王の英布(えいふ)(もしくは顔に(いれずみ)があることから黥布(げいふ)ともいう)が反乱を起こした際に劉肥に従って歩兵隊・戦車隊・騎兵隊、合わせて12万の兵を率いて高祖の軍に合流して英布を破り殺したのち南へ向かって?()へ向かい竹邑(ちくゆう)(しょう)、蕭、(りゅう)を平定した。

 ここまでの曹参の戦績を総ずると、国2つ、県122つを陥落させ、王2人、相3人、将軍6人、大莫敖(だいばくごう)(楚の将帥の号)・郡守・司馬・侯(原文だと司馬侯(しばこう)だが恐らく別々に読むのが正しいだろう)・御史をそれぞれ一人ずつ捕えた(【史記】曹相国世家より)。

 恵帝(けいてい)元年(紀元前194年)に法改正により諸侯の国に相国を置く制度が廃され改めて曹参は斉の丞相となった。

 斉の相国、丞相時代、曹参は斉の長老や学者を全員集め民を按ずる方法を問うた。斉には古来から多くの儒学者がいたらしいが曹参は自らの師に黄老思想家(こうろうしそうか)(黄老思想は無為自然を尊ぶ老子(ろうし)の流れを汲む思想)の葢公(がいこう)を選んだ。


葢公曰く

「政治は清静を尊ぶ。」



 これに賛同した曹参は正堂(せいどう(丞相の政堂)を葢公のために開放し住まわせたという。またこの時期に?徹(かいてつ)(史記や漢書では前漢の武帝の諱を避けて?通(かいとう)(もしくは?通(かいつう))となっている)を召し抱えて政治を大いに安定させた。その年月、9年間に及んだ。他にも魏勃(ぎぼつ)といった多くの人材を抜擢した。

 恵帝2年(紀元前193年)に相国の蕭何が亡くなった。


曹参はそれを聞いて舎人に命じた。

「出立の準備をせよ。私は相国になるであろう。」

果たしてその通りとなった。
 
出立の際に後任の丞相(姓名は不詳)に忠告を与えた。

「監獄と市場に介入せぬこと以上に政治において重要なことはなし。それらは人の善悪を受け入れるところであって政が介入しては人の善悪は一体どうしていけばいいのか。」



 この忠告からも曹参が黄老思想に凝っていたと分かる。「大国を治むるは小鮮を烹るが如し」という老子の言葉があるように黄老思想では極力介入を防ぐなど、何もしないをすることで国を治めようという「無為自然」の考えが根底にある。

 蕭何は死ぬ直前に曹参を後任に指名していた。互いに高位を得てから疎遠となっていた二人だったがその親睦は死ぬまで続られていたのである。

 相国となってからは蕭何の路線を守株して変えることがなかった。役人も、才能がなくても温厚な者を抜擢し、逆に才があっても野心を抱く者は罷免した。朝昼晩常に酒を飲み、諫言しようものなら酒に酔わせ意見を言わせぬさまであった。


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