前編
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える。
不意にあたりの景色がぐにゃりと歪んできた。目が回り、足取りがおぼつかなくなる。なんとか態勢を保とうとしたが、体はどこかに落ち込んでいくようにバランスを失い・・・そして目の前が真っ暗になった。
「大丈夫?」
涼し気な声が掛けられ、体をやさしくゆすられた。ふいに意識がはっきりしてくる。
気づくと『彼』は固い床に横たわっていた。
長い黒髪の女性が、身をかがめて『彼』の様子をのぞき込んでいた。
美しい顔だった。雪のように白い肌と艶やかな黒髪のコントラストはハッとさせるほど蠱惑的だった。名人が筆で描いたように細くきれいな眉。光を当てられた黒い宝石のように輝くうるんだ瞳。形の整った上品な鼻に、何かを問いかけるような淡い桃色の唇。それらが絶妙のバランスを取ってそこにあった。普段、人の美醜に捉われるたちではないのだが、魅入られたように目が離すことができない。
彼女は赤い和服を身にまとっていた。着物には何かの鳥の柄が入っている。そう、彼女は間違いなくタルタロスで舞い踊っていた、あの赤い着物の女性であった。
彼女自身の持つ落ち着いた古風な雰囲気も相まって、まさに着物がよく似合う日本美人と言えた。
「あなたは・・・。」
しばしその姿に意識を奪われたいた『彼』が、ようやくが尋ねると、女性は少し困ったような表情を浮かべた。
「それが、その・・・よくわからないの。」
どこか夢見るような様子だ。
「自分が誰なのか・・・頭に霞みがかかっているみたい。」
記憶を失っているのか、頭がはっきりしていない状態のようだ。言葉にもあまり感情がこもっていない。
『彼』は体を起こして周りを見回してみた。
床は板の間。壁は布のようなベージュのクロス。天井も木造で、部屋の中央に照明が光っている。8畳ほどの広さがあり、窓は無い。
何のためのスペースなのか想像がつかないが、その造りから言って民家という雰囲気ではなかった。建物はそこそこ年数が経っている感じだ。部屋にドアは無く、そのまま2方向に広い廊下が伸びている。
「ここは?」
「私にもわからない。」
女性が静かに首を振った。
「どこからか落ちてきたような気がするんだけど、どうしても思い出せなくて・・・気が付いたらここにいたの。なんとなく知っている場所のような気もするけど、やっぱりはっきりしない。」
自分の置かれた状態がわからない為か、やや不安そうにそうにも見えた。
『彼』もなぜこんな場所にいるのかわからないのだから、お互い似たような立場と言えるだろう。
「僕はどうしてたんだろう。」
「私がこの建物で中を迷って歩いていたら、あなたがここに倒れているのを見つけたの。」
タルタロスからこの場所に転移してきたようだ。タルタロスがなぜこのような場所に通じていたのかは不明だが、ここが現実の建物かどうかも怪しい。
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