238部分:二百三十八.御随身近友
[1/2]
[8]前話 [1]次 最後 [2]次話
二百三十八.御随身近友
二百三十八.御随身近友
随身の中原友近殿が自慢話だと断って書いた七つの箇条書きがありますが全て馬のことで下らないものだろうです。なおひつ者にも自慢話があります。
一つ。大勢で花見に行った時のことです。最勝光院の近くで馬に乗る人がいました。それを見てもう一度馬を走らせたら馬が転ぶだろう、見てみようかと思い立ち止まりました。馬が再び走りますとやはり引き倒してしまい乗り手は泥の中に落ちました。予想が当たったので皆驚いてしまいました。
一つ。後醍醐帝が東宮だった頃のことです。万里小路の東宮御所に堀川大納言殿が御機嫌伺いに来て部屋で待っていましてそこに入ると大納言殿は論語の四巻から六巻までを火遂げて東宮が世間では紫ばかり重宝され朱色を軽く見ているのが残念だという話を読みたいと仰り探しているが見つからない、もっと探すように言われて困っているところだと仰るので九巻のところにありますと教えて差し上げると大納言殿は助かった、有り難うと仰りその本を持って東宮様のところに行かれました。子供でも知っているようなことでありますが昔の人はこうしたことでも自慢したものであります。後鳥羽院が短歌に袖という単語と袂という単語を一音の中に折り込むのは悪いことだろうかと藤原定家殿に質問したことがあります。定家殿は古今集に秋の野の 草の袂か 花蒲穂に出でて 招く袖と見ゆらん とありますので何も問題はないでしょうと答えたそうであります。わざわざ大事だと思い覚えていましたが役に立った、歌を担う者として名誉なことであり神がかった幸運だと物々しく書き残しています。藤原伊通殿もどうでもいい経歴を書きつけて自画自賛していました。
一つ。東山の常在光院にある鐘突の鐘は菅原在兼殿が考えたものです。藤原行房殿が清書した文字をかたどる時に現場の人がそれを筆者に見せてくれました。花の外に 夕を送れば 声百里に聞ゆ とあります。この百里は誤りでしょうと言いました。その人はお見せしてよかった、自分の手柄になると在兼殿に伝えました。すると自分の間違いなのですぐに百里を数行になおしたいと仰いました。数行もどうでしょうか、これは散歩という意味でしょうか。そこまではわかりません。
一つ。大勢で比叡山の東塔、西塔、横川の三つの塔をお参りした時のことです。横川のお堂の中に竜華院と書かれた古い額がありましたがこれは書道の名人藤原在理殿が書いたものかそれとも藤原行成殿が書いたものかと問われたのですがはっきりしませんが若い小僧が勿体ぶって言うのでそれで行成殿が書いたものであれば裏に説明書きがあるでしょう、佐理殿が書いたものならばそこは空白だといいました。裏は埃だらけで蜘蛛の巣までありました。奇麗に掃除してそれで確かめると行成が何時何時に書いたとあったので皆感
[8]前話 [1]次 最後 [2]次話
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2024 肥前のポチ