竜宮城に行けた男
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古代ギリシャの季節を司る女神ペルセポネが、蒸し熱い夏にもそろそろ飽いたので、命ある生物≪いきもの≫達にとって、涼風が舞うすがすがしい気持ちになる初秋にしょうと、優しさを込めて徐々に季節を移ろわせ始めた頃だった。
かなり老朽化している養護施設の前で、美形だが生活苦でやつれきった二十歳前後の女性が、キョロ、キョロ、キョロ、キョロ……落ち着かない様子をして付近に誰もいない瞬間を狙っていた。その女性は安物の花柄ワンピースを着ており、無造作にふりかけた、これもまた安物の香水の香りを辺り一面にほのかに漂わせていた。
まるでミミズが這ったような汚い字で連綿と泣き言を書き連ねた手紙を、ヨレヨレになった幼児服の小さな胸ポケットに無造作に詰め込み、色もあせてしかも薄汚れているバスタオルに包んだ我が子を地面に置くと、足早に逃げるようにして立ち去ったのだ。
真っ赤な顔をして、ギャア、ギャア、ギャア、ギャア……と、泣き叫ぶ幼児を発見した六十歳代の施設長は義務感から渋々ながら、その子を施設に収容せざるをえなかった。
火がついたように大声で泣き喚いていたのは、私であった。
天才は母体の中にいる時の記憶を有しているらしいが、私は一歳頃からのできごとしか記憶にはない。悔しいがそういう点では天才に比べると、少し劣っているのかも知れない。
捨てられた時、私は二歳ぐらいであった。母にSの性癖があったのだろう、暴れないように私は細い縄でがんじがらめにされていた。身動き一つできなかった。大声で泣けば、必ず誰かが助けてくれるに違いないとの思惑と知恵が、既に私には備わっていたのだろうか?
信頼しきっていた母親に捨てられた悲しみと苦悩は、いくら泣き叫んでも消せなかったのだ。
まるで墨汁をふりかけたようなどんよりした黒い雲に埋め尽くされた漆黒の空が、落としたのは雨だけではなく、私の心の奥底に惨めな思いとPTSD――心的外傷後ストレス障害――を植え付けたのだ。
この暗澹≪あんたん≫たる光景がデフォルメされた種々の悪夢を、これまで数えきれないほど味わった。既に成人した今でさえもこのような悪夢にうなされて、真夜中に目覚める時がある。そんな時、下着を絞れば悲哀の染み込んだ冷や汗が、大量に滴り落ちるのだ。
私が収容された施設の長は、神聖ローマ帝国神学者でルーテル教会の創始者であったマルチン・ルターを、心の底から信奉していた。
施設長は頭の天辺から足のつま先に至るまで、ガチガチのプロテスタントだったのだ。まるで自分自身がマルチン・ルター本人であるかのように、彼に関係する全ての人に対して振る舞っていた。土色をしてまるでウリのように細長い顔の施設長は、陰鬱≪いんうつ≫に満ちた根暗のオーラを周囲に放っていたのだ。しかも、常に施設長は薄い胸板の前で両の手のひらを丸
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