竜宮城に行けた男
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とし、様々な姿態、表情をした女性美を追求した美人画の大家である歌麿の作品だった。絵の心得も少しはある私は、かたわらで鑑賞させてもらったが、賞賛の域を遥かに超越した素晴らしいできだ。思わず感嘆の声が出てしまった。たとえ、大声で賛辞しても誰一人として、この時代に生存している人達の耳に届きはしないが……。
最近、長い間、行方≪ゆくえ≫が不明だった「深川の雪」が発見され修理を施された。その掛け軸は、縦二メートル、横三.五メートルと巨大な肉筆の浮世絵で、「品川の月」、「吉原の花」とともに「雪月花」三部作として、歌麿肉筆画の最高傑作といわれている。東京・深川の料亭を舞台にして二十七人の遊女や芸者が、火鉢を囲んだり遊びに興じたりする姿が、生き生きと描かれているのだ。その歴史をたどれば、中国の北宋時代に掛物として掛軸が用いられていたようだ。
元禄文化は十七世紀終わり頃から十八世紀初頭にかけて、元禄時代(千六百八十八年〜千七百七年)を中心として、主に上方を中心に発展した文化で、江戸にまで拡散し庶民的な面が色濃く現れているのがその特色である。だが、その文化を担っていた層は必ずしも町人ばかりでなく、武士階級の者も多い。
元禄時代より、更に時代を過去に遡ることにした。
一時間前後待てば、T・Pで正確な緯度・経度と年月日・時間が判明できる。しかし、その時間が惜しいのでたまに無視することもある。今回もそうしたのだ。
江戸時代の初期だろうか、定かな年号までは把握できないが、木戸が随所にあり女性の姿がまばらで少ない。江戸は京都や大阪と違って当時は発展途上の町であり、商人や職人の多くは単身で地方から出てきていた。江戸で成功すれば、郷里の妻子を呼ぼうとしたためであったのだろう。
生活習慣が異なるので喧嘩は絶えることがなく、治安状態も非常に悪かったのだ。盗賊が多く横行して富裕な商家から千両箱を運び去ると、口封じと証拠を隠滅するために家人を殺すばかりでなく放火したのである。普通の意味でも、悪い意味でも「火事と喧嘩は江戸の華」なのだ。
猿と狸爺≪たぬきじじい≫を、中学校の社会の教科書でしか見ていなかった。だから、実際の顔と間近で対面しようとした。しかし、江戸城天守閣の上空にやってきて丸一日過ごしたが、豊臣秀吉、徳川家康のご尊顔は拝せなかった。
千五百九十年、江戸城は豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城したが、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、千五百九十年八月三十日に公式に入城し居城としたのだ。
仕方なく私は天下分け目の戦いで知られる、千六百年十月二十一日に勃発した関ヶ原の戦いを観戦することにした。これは、周知の通り、美濃国不破郡関ヶ原を主戦場とした野戦で、徳川家康の覇権を決定付けた戦いである。
私はTV,映画に出てくるような本格的に武術と学問を身
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