百十三 時越え
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巫女として当然身につけねばならぬ巫術の一切を何も教わらなかった。
それはひとえに、母・弥勒の命令によるもの。
如何なる術もあの子には教えぬ。
巫女の側仕えの男に、弥勒はそう一言、申し付けた。狼狽えた部下が弥勒に詰め寄ったが、彼女は頑なに首を振る。
代わりに母から与えられたのは、現在紫苑を【魍魎】の闇から守っている、小さな鈴だった。
弥勒の言葉通りずっと、肌身離さず身につけているその鈴を、紫苑が手放したのは一度だけ。
その一度の過ちが、母の死の要因とも言えた。
≪……母になにが起ころうと、心乱してはなりませぬ。お前の前から母の姿が消えようと…この世と同じ、泡沫のもの……≫
弥勒の声が紫苑の耳朶にこだまする。
お守りだ、と幼き日に母に手渡された鈴が昔と変わらぬ美妙な音を鳴らして、紫苑のかつての記憶を呼び起こした。
無意識に脳裏の奥に封印していた忌まわしい記憶。
母の弥勒が紫苑の前から姿を消した訳がその過去には記されている。
故意ではなくとも、仕方がなかったことだとしても、紫苑にとって消し去りたい過去の映像。
だが、同時にその記憶にこそ、巫女の力の秘密が隠されていたのだ、と紫苑は今この時を以ってようやく気づけた。
「―――母さま…っ!」
幼い紫苑が叫んでいる。それを、今の紫苑は視ている。
過去の映像だというのに、いつもの予知夢を視ているように、紫苑は鈴が織り成す光の中に、そのビジョンを見出した。
幼き自分の眼前で、母の弥勒が【魍魎】と対峙している。
紫苑は母を呼ぼうとして、声を呑み込んだ。【魍魎】と弥勒が交わしている話の内容から、二人が旧知の間柄のようであるのが幼き彼女にも理解できた。
『魍魎の力にお前の巫術が加われば、この世を統べるなど造作も無いこと。それなのに、何故人間の味方なぞする!?』
「愚かな…。何故、人を信じてやれぬ」
『人?人を信じる?本気で言っているのか!?……もうよい。お前の力、借りるに及ばぬ』
形の無い闇の姿で【魍魎】は首を振ったような仕草をした。その動作からは【魍魎】が弥勒を見限ったのが窺える。
だがそれは、弥勒にも言える事であった。
弥勒は【魍魎】をただじっと見返している。その瞳の奥には、【魍魎】に対する哀れみの色が浮かんでいた。そして同時に、何らかの覚悟をしている強い眼差しでもあった。
【魍魎】が襲い掛かってきていたこの出来事を何故憶えていなかったのか、もしくは忘れてしまっていたのか。
いずれにせよ母と幼き自分に脅威が迫っているのは確かだ。そう思いつつも現実の紫苑は手を出せない。
目の前の映像が、既に終わった過去の出来事だからだ。
時を越えて過去
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