Chapter 1
[2/4]
[1]次 [9]前 最後 最初
た雰囲気の男だった。彼の一重の目が、僕としばらく重なり、そして男は、口元を一瞬歪めて視線をそらしていった。
僕は眠い目を上げ、あたりを見渡した。それから、視線をベビーカーの方へと、ゆっくりと降ろしていった。
体中の血が、一瞬で沸きあがっていくようだった。
赤子は瞬きひとつしない。大きな瞳をぱっちりと開いたまま、何か虚空を眺めるように無表情だった。プラスチック製のつやつやしたほっぺたに、母親の細い指があたる。その指先、ほんの少しだけ沈んでいった。
僕は目をきつく閉じて、かすかに首を横に何度か振った。
もう一度、目を開いて、今度は盗み見るように、顎を少し上げてベビーカーの方に視線を合わせた。
「電車の揺れがちょうどいいみたい」
女は目を細め、人形に目線を近づけていく。僕は見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて顔を上げた。
また、男と視線が合った。僕は凍りついたような無表情していた。彼も、歪んだ口元以外は、まるで遠い夢想に耽るような、気分の窺い知れない顔つきで、じっと僕を見つめていた。
何を考えていたのか、男の心理のひだに、そっと指を上げたい衝動が、僕の手首を軽く痙攣させていた。僕はその手を、まるで自由の利かない生き物を押さえ込むみたいにして、もう片方の手でとると、ぐっと力をこめて握り締めた。
やがて、上野御徒町へ到着を告げる車内アナウンスが流れ始めた。ここで降りなければならなかった。JR線に乗り換える。
席を立つ。彼らから遠い方の出入り口から、僕はホームへと降り立った。額に手をやると、ひどく汗をかいていて、それはすでに冷え切っていた。
乗り換えまでの道のりは長い。地底の通路を少し大またで歩く。行き交う人々も、同じように早足で僕の横を通り過ぎていく。みな、何かに取り残されてしまう気がしている。
階段を登る。眩しい夏の日差しが、頭上にくっきりと浮かび上がる。僕は額にもう一度手をやった。たった今、車内で見た光景が嘘のように、砂上の楼閣が、風にかき消されていくように、脳裏から崩れていく映像がよぎっていった。跡形もなくなった瀟洒な砂の城のあとには、提案書が積まれていた。
僕は携帯電話を手にすると、チームメイトに電話を入れた。
「うそ…」
妻の咲子はカウンターキッチンによりかかると、まずはそう口にした。
「いやでも、何度か見直したけど、やっぱ作りもんだったよ」
僕は椅子に深く背をもたれかかせた。
食器洗いを終えた彼女は、手を拭きながら、僕の向かいに座ると、テーブルに両肘をついて、じっと僕を見つめた。
「疲れてる?」
「ふふっ、いくら疲れてるからって」
僕は片方の手を振って見せ、
「人形であるくらいわかるよ」
と言った。
「なんか色々考えてみたんだ…、多分さ、流産かな
[1]次 [9]前 最後 最初
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2024 肥前のポチ