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送り犬
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第一章

                     送り犬
 これは奈良県でのことだった。より具体的に言うと和歌山県との境、まだ秘境と言ってもいい、そんな深い山々と木々に覆われた場所でのことだ。この時この秘境に二人の男が歩いていた。
「なあ若松さん」
「はい、南口さん」
 若い背の高いしっかりとした顔立ちの男の言葉に小柄で何処か歌舞伎役者を思わせる独特の顔立ちの男が応えていた。二人とも地味な色の登山着を着てリュックを背負っている。その手には杖もある。二人は今もう日が暮れた深い山の中の道を進んでいる。当然道は舗装もされていない山道である。
「宿までどの位ですか?」
「あと二十キロ程ですよ」
「二十キロ・・・・・・」
 若い南口さんはまずその距離を聞いて絶句してしまった。
「まだそんなにあるんですか」
「何、もう三分の二は歩いています」
 つまり二人は既に四十キロも歩いているということだ。相当な距離なのは言うまでもない。
「あと少しですよ」
「二十キロといえば」
 南口さんは思わず自分の左手の時計を見た。今丁度七時だ。このまま歩いていけば日が変わってしまうかどうかという時間になると思った。
「宿に着く頃には時間が変っていますよ」
「ええ。そうですね」
 だが若松さんの言葉はあっさりとしたものであった。
「そうなるかも知れませんね」
「そうなるかもって」
 南口さんはそんな若松さんの言葉に思わず詰まってしまった。夜空には黄色い満月が大きく照っており左右には深く木々が繁っている。誰も入ったことのないような。何時鹿やら熊やら穴熊やらが出て来てもおかしくはないような、そんな場所であった。
「呑気なこと言っていたら」
「宿には遅くなるって言ってるじゃないですか」
「それはそうですけれど」
 また呑気なことを言う、と思って若松さんに言い返した。
「そんな問題じゃ」
「宿ではお風呂を用意してくれているそうなので」
「お風呂の問題じゃなくてですね」
「食べ物もあるじゃないですか」
「まあそれは」
 それもあった。既に昼に夕食にとパンやら飲み物やら色々買っていたのだ。その中にはお菓子もある。とりあえず食べ物には困らなかった。
「そうですけれど」
「それでは後は歩くだけですよ」
「それだけですか」
「はい、それだけです」
 相変わらず穏やかな若松さんの言葉だった。見ればその足の動きも実に軽やかだ。南口さんよりも年配だというのにその動きは彼よりも上に見えた。
「歩いて宿に着くだけです」
「大丈夫なんですか?」
 南口さんは暗い周りを見て怪訝な声をあげた。その左右の何時何が出て来るかわからない森を見回しながらの声であった。その声は震えこそしていないが不安に満ちたものであった。
「本当にそれだけで」

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