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資料 恋姫時代の後漢
資料 恋姫時代の後漢
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ら現代の資料をベースにしている。


 さて、中国の農業を語る上で外せないのが華北と華南という呼び方。これは北の黄河と南の長江のちょうど間くらいにある秦嶺(山脈)・淮河線と呼ばれる東西に伸びる境界線で分けられる地域のこと。この境界線より北を華北、南を華南と呼ぶ。
 淮河は淮水とも呼ばれ、荊州南陽郡南東部の平氏県から流れ出し、豫州汝南郡南部、揚州九江郡北部、徐州広陵郡淮南を通って長江の北側で海に流れ出す大きな川。
 雨量や気候の違いから作られ消費される穀類に差異があり、食文化などの違いを生む。
 華北では麦作が盛んで麺食中心、馬を扱う文化が育まれた。
 華南では稲作が盛んで米食中心、船を扱う文化が育まれた。
 北麦南稲、南船北馬とも。

 川は数あるものの平坦な土地ばかりであるため、水利用に難がある地域が多かった。
 水利用に関する法もあったが、その年の収穫であるとか土地を監督する役人次第で厳しく取り締まられたりざる法になったりとブレが大きく、上手く機能してはいなかったようだ。ちなみにこの法は、個人の水利用を制限した現代日本の法律にまで名残をとどめる。
 大河の上流域では逆に峡谷などとなってしまって水が利用できず畑(特に段々畑)がよく見られた。およそこの農作文化の境から西を姜族が治め、羌や西羌と呼ばれた。ここでは連作障害が酷く、上流へ上流へと開拓を進めつつ移住していったようだ。

 雨の多い地域では畑は酸性土壌に傾きがち。鶏は雑草の芽を食べ糞が栄養にもなるが、糞が畑をアルカリ性土壌に傾ける。連作障害によっても土壌の酸度は変化する。
 アルカリ性の土壌は黍の仲間やテンサイを栽培することで酸性へ傾き、酸性の土壌は石灰を撒いたり芋類の栽培でアルカリ性へ傾く。また、多くの作物は弱酸性を好む。

 牛馬は荘園を持つ豪族や領主などがまとめて飼うものであり、これを利用する農作業はほぼ荘園内でしか見られないもの。一方で牛馬と専用の農機具を用いれば畑を深く耕せるということは知られていたようなので、ある程度は普及していたのだろう。
 農具は木製や青銅製、鉄製があった。黄河の流域には鉄の産地が多く、長江中流域には銅製品の一大産地である江夏郡が存在したため、分布も似通っていたものと推測される。

 当時ははげ山が多かった。現在のチベットや北朝鮮の山というものを想像すれば理解に近づけるだろう。これは植林の概念が非常に希薄であったことに加えて伐採などで失われる森林が圧倒的に多かったため。様々な文明で同様に起きた事例であり、中世日本も例外ではない。一方で人の手が入らない森林にも低木や草花の育成環境としては若干の問題があったため、日本では植林と同時に間伐などの手を加える里山の概念が広まった。
 特に用途がはっきりしている材木に関しては保護らしきものも
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