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資料 恋姫時代の後漢
資料 恋姫時代の後漢
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を引き連れていたため、その行軍速度は思ったように上がらないと言う。
 ルートの選定次第ではあるが、長坂の戦いが起こっていることから少なく見積もっても800qは逃亡に成功し、その後の諷陵(?陵)までの山間部隘路桟道600qと合わせて1400qは逃げ続けている。後漢の単位で3500里ほどである。
 なお、史実の劉備は樊城から襄陽を経由して江陵方面に逃亡し、1日10里余りを逃げた(5q前後?)が、約200qで補足された。

 曹操軍が1日30qで劉備軍とほぼ同じルートを行軍していたと仮定すると、泰山から当陽の長坂までは34日。
 魏ルートでは曹操陣営が袁紹に突如攻められた際、兵2万を集めるのに掛かる時間は最短で1日と見積もられていた。仮に劉備陣営が斥候に1日半と、兵士5万の出立まで最短1日半で行えたとしても合わせて3日。曹操軍を基準にして長坂まで31日。
 曹操軍は1日30qで3日進んでいるので、二者の距離は残り130qだ。
 民を連れた劉備陣営は130qに迫った曹操軍から31日間逃げ続けたことになる。単純に言えば1日あたり4.2qしか追いつかれていない。最後尾の移動速度が1日あたり25.8qだ。
 ほとんどの民を連れた先頭集団の劉備らは、諷陵に入るまで(600q手前の)長坂で曹操軍に追いつかれ、撃退した事は知らなかった。つまり、そのままのペースで逃げ続けていた事になる。
 先頭集団が最後尾よりも速い1日25.8q以上進んでいたとすれば、史実の5倍を超える速さである。しかも移動距離は7倍。民は何倍強いのか。
 魏ルート十二章では「南方には風土病が多い」ため医薬品を多量に用意したとある。ここで知っておいて貰いたいのだが、徐州は北方の州であり、荊州は南方の州であること。
 さらに、劉備たちが通った長坂から諷陵への道は、三峡の険と言われる中国有数の難所である。児童公園などにある丸太で出来た橋を渡る遊具を思い浮かべて、そこから一つ飛ばしに丸太を取って、片側を崖にして、足下を崖にして、手すりを取ったものがおおよそ桟道と呼ばれるものであり、この道が150q以上に渡って続くのが三峡の険なのだ。荷車など当然通れないし、馬を通すのは至難だろう。

 つまり、徐州の一般人達は、突然の通達から僅か1日余りで家財道具をまとめて、それらを持ったまま曹操軍騎兵の影に怯えながらも彼らの約9割の速さを保って逃亡を続け、平定間もない揚州(敵国)の北、曹操の影響が強い豫州(謎の空白地帯)を通り、風土病や湿地の多い荊州(仮想敵国)を駆け抜け、馬車や荷車が通れないほど狭い山道すらも休みなく歩き、日本で言う本州北端青森から本州西端山口までと同等の約1400qを引っ越したのだ。意味:化け物。




 魏ルート 十五章
「だから華琳。君に会えてよかった」「……逝かないで
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