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資料 恋姫時代の後漢
資料 恋姫時代の後漢
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は豫州潁川郡の県で、当時の名前は許。
 ?州陳留郡の南、荊州南陽郡の北東。曹操は陳留刺史と言われているのに豫州まで支配下に置いていたのだろうか?
 ゲーム内の時期的にも黄巾党討伐直前であり、この時期に豫州を曹操が抑えていたりしたら、蜀ルートで徐州から逃げ出す劉備陣営の逃げ道が存在しないことになる。
 反董卓連合終結後までに豫州を捨てたか、平定を後回しにしたのだろうか。




 呉ルート 四章
 一刀「建業って?」
 雪蓮「私たちの本拠地だったとこよ」

 建業は揚州丹陽郡の県で、当時の名前は秣陵。
 本来の本拠地は揚州呉郡の呉県。呉郡は顧家、陸家、朱家、張家の影響が強く、孫家は弱小豪族の一つでしかなかった。
 孫策の没後11年ほどしてから、孫権が呉から秣陵に本拠地を移す。翌年に石頭城という要塞を築城して建業と改名した。
 なお、これより700年ほど前の春秋時代に呉の本拠地だった事がある。もちろん孫呉ではないが。




 呉ルート 十章
「五十里ならばおよそ一週間ほどか……!」

 上記は孫呉が揚州から劉備治める徐州に攻め入った際に、北方より曹操が介入してきたシーンで甘寧が放った台詞である。蜀ルート七章と同じく徐州の彭城付近での出来事。
 曹操軍が?州の泰山から徐州彭城に向かっていたとすると、実際の地図に当てはめればその距離は220q程度。日本の単位なら大体55里ほどであるが、後漢の単位ならば530里を超すはずなのだが。
 史実によれば、劉備が民を引き連れて荊州から山間部の益州へ逃亡した際の行軍速度が1日10里余りだった。もちろん後漢の単位で。なお、後漢の里で10里は4q程度。
 後漢の単位で50里ならば20.7q。21qに1週間かかったのなら1日3qも進軍していないということになる。よって、この50里は約200qを指した物であり、逆算して曹操軍の『常識的な』行軍速度は1日30q程度であることがわかる。
 さらに、直後には主戦場を赤壁へ……860q、後漢の単位で2000里以上も離れた場所へ移している。甘寧の言った単位ならば215里か。4週間分? 恋姫時空である。




 蜀ルート 七章
「なら、逃げちゃおう」

 呉ルート十章とほぼ同じ位置関係で劉備陣営のみが攻められた際の劉備の台詞。
 報告に来た兵士の話をまとめれば、国境を越えるまで察知出来ず、砦を囲まれるまで肉眼で確認しており、それから確認した当人が朝議の場まで知らせを携えてきたようだ。
 当時の馬では、国境からの220qを進むにはどんなに早くても丸一日はかかる。攻められた時間が早朝でないとすれば、一日半掛かったと見るのが妥当である。
 その後、孔明曰く「破竹の勢い」で進軍を続ける曹操軍を尻目に逃亡を図る劉備陣営であるが、民
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