資料 恋姫時代の後漢
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西洋の船とは違い船体中央を支える竜骨がなく船底が平らだった。このため浅い水辺を移動するのに向いており、大河や湖で発展したものと考えられる。
また、後の時代では水密区画と呼ばれる浸水に対応するための構造を持ち、船の後方に取り付けられた舵は取り外すことも出来た。前述の浅い水辺に対応する構造である。
帆は初期には竹や草を編んだ筵が使われており、強度を補うために多数の骨組みで支えていた。骨は竹や木を使って作られた。この骨組みは帆の強度を増すだけでなく形を維持するのに大きな利となっており、微風から強風まで高効率を維持できた。ただし重い。
ジャンク船はかなり進んだ構造の船であり、蒸気船の登場まで世界最速級の船だったと思われる。後年の記録になるが、風速9メートルの横風に対して秒速約4メートル、およそ7.5ノットの速度が出せたと言われる。中世ガレオン船の倍近い効率である。風速に対して6割以上の速度を出せると謳う研究もあった。
6割以上という馬鹿げた数値は、しかし、後述の通りかなり真実に近い可能性がある。
紀元前の秦勃興の時代、紀元前316年〜309年のいずれかの時期に、秦の張儀が公の場で水軍について語ったところによると、秦の船は一隻で50人と3ヶ月分の食料を載せて1日300里(約130q)進むことが出来、(後漢の)益州成都付近から荊州江陵付近まで10日で軍を展開出来るのだとか。地理的には長江を下ることを指している。
当時の水軍の一般的な速さは不明だが、後述の行軍速度あるように1日130qの行軍速度というのは異常に優れていると言える。
なお、蜀の時代に白帝城から江陵まで50人乗りの船に乗って僅か1日で景色が変わってしまったと詩を綴った人物もいる。白帝城から江陵は約450q。
450qを1日で移動する速度を求める。
夜中の運行は不可能だと仮定して、朝4時半に出て夜7時半に到着できると考える。
15時間で450qを移動するには、時速30qが必要。秒速約8.3メートル。益州巴郡付近の長江の流れは秒速3.8メートル程度。荊州巫峡付近の流れは秒速7メートル以下。不足分は秒速1.5メートルから4.5メートル。この分を風から生み出していたと思われる。平均3メートルくらいか。
秒速4.5メートルは、風速10メートルの45%、9メートルの50%、7.5メートルの60%、7メートルの64%に相当。
秒速3メートルは、風速6メートルの50%、5メートルの60%に相当する。
長江上流の益州巴郡江州県での流速は毎秒3.8メートル(7.4ノット)。
荊州と益州の境にある難所、巫峡での流速は毎秒7メートル(13.6ノット)以下。
黄河は司隸京兆尹長安県付近での流速が毎秒3.1メートル(6ノット)。
江陵の少し下流にある荊州
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