資料 恋姫時代の後漢
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った。
子午道は漢中と司隸京兆尹長安県を結ぶ道で、駱谷道はその西に並行する道。
褒斜道(斜谷道)は漢中から褒水に沿って北に進み司隸扶風(ふふう)郡?(び)県へと至る道。南口を褒斜、北口を斜谷と呼ぶ。褒斜道が司隸に入った場所に五丈原がある。
故道は、益州と涼州と司隸の州境西側から散関を経て、州境北側にある司隸扶風郡陳倉(ちんそう)県へ通じる。
関山道はさらに西方の涼州漢陽(かんよう)郡にぬける比較的平坦な道。
荊州と益州の陸路は、三峡の険と呼ばれる150qにも及ぶ険しい峡谷によって半ば断絶していた。益州に近い方から瞿塘峡、巫峡、西陵峡であり、荊州に近いものの方が長く険しい。
ただし、長江の流れに乗って東に向かえば、流れが穏やかで川幅も大きい場所が多いため、簡単に荊州へと入れる。三峡付近では流速が早い。三峡よりも益州側にある白帝城から江陵まで船で僅か1日だったということを謳った詩歌が残る。
涼州(りょうしゅう) 42万人 10万2千戸 後に魏の支配下
州都は漢陽(かんよう)郡隴(ろう)県。後に(おそらく南部が雍州に組み込まれた際)、武威(ぶい)郡姑臧(こそう)県に移っている。
戎や羌族などの異民族が多数暮らしており、遊牧民も多かったようだ。
数々の歴史書で畜産、牧畜が極めて盛んであったと記される。
後漢末期最大の反乱者の一人、韓遂が居座り、黄巾の乱の直後から25年以上に渡って延々と反乱を起こし続けた。最終的に曹操が攻めたことで韓遂は部下に殺されるが、その部下も後になって反乱を起こした。
有名なところでは馬騰がこの反乱に参加したり敵対したりと忙しい人生を送っている。
交州(こうしゅう) 111万人 27万戸 後に呉の支配下
州都は南海(なんかい)郡番禺(はんぐ)県。
南海貿易によって珍品の手に入る土地として、劉焉や劉備が望んだことで知られる。どちらの人物も部下の進言によって益州に目的地を変更して大いに成り上がるのだが。
現在のベトナムの大半を含む地域で、現地異民族の反乱が頻発していた。
秦の始皇帝時代に初めて中国の版図に組み込まれ、以来、支配力が弱まったりして何度か中央から圧力を受けるもののずっと支配下。
現地で有力だったのは士家という豪族。士家の士燮は劉表からの圧力に反発して曹操と結んでみたり、赤壁後には孫権と結んでみたりしつつ交州を実効支配。
後に孫権によって派遣された呂岱が士燮の死を機に征服し、呉の支配下になった。
7.みんな知りたい 税率
まずは史実の後漢における税率を見る。
後漢時代の税は大きく分けて、土地に掛かる税、人頭税、労役(兵役含む)の3種類。
土地にかかる税は農家一戸あたり、収入の3
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