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資料 恋姫時代の後漢
資料 恋姫時代の後漢
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南郡、南東に江夏(こうか)郡。州中央付近に西から東に向かって長江が流れる。長江の南には四郡が存在した。西に武陵(ぶりょう)郡、東に長沙(ちょうさ)郡、南部中央に零陵(れいりょう)郡、南東部に桂陽(けいよう)郡。

 南陽郡は後漢で最も人口の多い郡であり、一州に匹敵すると言われた。実際、幽州、并州、涼州、交州を上回り、徐州とほぼ並び、司隸にやや及ばない程度の人口を有する。
 歴代の支配者は王叡、張咨、袁術、張繍、曹操。曹操の後は魏の支配下で安定した。
 鋳鉄で有名。歴代支配者による水利事業や農業政策で大いに発展したと言われる。

 南郡襄陽県は中国史でも有数の要衝の地。中国北部の勢力がこの地を抑えれば南部をも抑えられる。劉表は南部で暴れる孫堅を討つため、南方の州都ではなくこの地に入って豪族勢力と結んだ。

 南郡江陵(こうりょう)県は荊州中央付近にあり、長江の船による交通と、前漢時代から南北に続く陸の街道がぶつかる要衝だった。
 劉備陣営は蜀を建国する益州に逃げ込む直前、この江陵を奪おうと画策する。結局は曹操の侵攻の方が早く、江陵に到着する前に本隊が追いつかれているため、大軍の通れない西側の細道から益州へ逃げ込んだ。

 江夏郡西陵(せいりょう)県は荊州中東部にあり、南陽や襄陽側から流れる襄江と、江陵側から流れる長江が結ぶ地。
 江夏郡の中央には東西に長江が流れ、その南側には中国最大の銅山『銅緑山』があるため、採掘や加工に関する技術、加工品などの産業が発達していた。

 南部の四郡は山に囲まれた行き止まりの地(中央から見て)だったので、前漢時代には未開発の土地だったが、後漢後期には人口が激増している。
 荊州北中部の発達に伴った人の流入が起こったものと見られ、200年ほどの間に人口が4倍増、戸数も5倍ほどに増えている。全国の人口が減少傾向にあった中で。



 益州(えきしゅう) 724万人 152万5千戸 後に蜀の支配下

 州都は広漢(こうかん)郡?(らく)県。興平元年(194年)12月に劉焉が蜀(しょく)郡成都(せいと)県に移した。
 2000メートル級の山々に囲まれた土地で、攻めるに攻められない天然の要害。
 州南西から州東部中央に向かって長江が流れており、州東部長江の北側に巴(は)郡。州北西側に蜀郡。
 最北部に蜀の桟道で有名な漢中(かんちゅう)郡。

 桟道とは、壁(崖)に杭などを打ち込んでその上を渡るアトラクションのこと。
 場所によっては登山の技術がなければ進むことも戻ることもできなくなる。
 馬はかろうじて通れるものの荷車が通れない、という場所も多い。そのため、蜀独自の規格で幅の狭い荷車(木牛流馬)が作られた。

 益州から北部に抜ける桟道には子午道、駱谷道、褒斜道、故道、関山道があ
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