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資料 恋姫時代の後漢
資料 恋姫時代の後漢
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徐州から臧覇を派遣。
 袁紹の死後、袁譚は家督争いで不利になり、青州は曹操に併合される。



 ?州(えんしゅう) 405万人 72万7千戸 後に魏の支配下に

 州都は州"北西部"の東(とう)郡濮陽(ぼくよう)県。
 州南西部の陳留(ちんりゅう)郡は太守に夏侯惇や夏候淵が就任した。なお曹操は?州刺史・牧となったことはあるが、陳留太守の座に就いたことはない。

 司隸の東、黄河の南に位置している。
 曹操はまず北西側、初平2年(191年)に黄河をまたいで冀州から侵入した黒山賊を初平3年(192年)には討伐。初平3年に北東側の青州から黄巾党が侵入して来たことで州刺史に出世し、黄巾討伐、自軍に編入。
 続いて西の司隸と南の豫州から袁術が、北の冀州から黒山賊が、呼応した公孫賛傘下からは東の徐州から劉備や陶謙が攻め込んで初平4年(193年)春に拠烽フ戦いとなる。袁紹と協力してこれを破り、秋には曹一族を殺害した徐州牧の陶謙を逆に攻め立てる。
 興平元年(194年)夏、徐州を攻めてる最中に身内の反逆と呂布陣営との呼応によって?州を奪われ攻勢を中断。その年は自然災害のために穀物の値段が暴騰。明けて翌興平2年(195年)春、?州奪還のために済陰(せいいん)郡定陶(ていとう)県を攻める。この攻勢と、それに続く夏の呂布との再戦、秋の再戦で勝利し、?州を奪還。

 これらの戦乱で荒れに荒れた?州では、極めて厳しい屯田制を敷いて生産力を無理矢理に向上させて補給問題を解消した。曹操が有利になったと書かれる創作が多いが、曹操の不利が解消されたと読むべき。



 徐州(じょしゅう) 279万人 47万6千戸 公孫賛を経て後に魏の支配下

 州都は州牧が陶謙時代には東海(とうかい)郡?(たん)県、州牧が劉備の時代からは下?(かひ)国下?県。呂布の頃も変わらず下?。?の城は守りづらい城と言われる一方で、下?の城は沂水と泗水に挟まれた天然の要害だった。
 下?国の太守には関羽が就いた。

 州北部に琅邪(ろうや)国。西部から南西、南部にかけてそれぞれ彭城(ほうじょう)国、下?国、広陵(こうりょう)郡があった。
 北部の琅邪国は臧覇という人物が抑えており、袁紹について青州を攻めたり、曹操について青州を攻めたりと活躍している。黄巾の乱の頃に活躍した人物で、その後ずっと影響力を持っていた。

 下?国には陳珪や陳登を輩出した名門陳家があり、徐州南部に大きな影響力を持っていたと言われている。
 呉の重鎮には徐州出身者が多い。琅邪国陽都(ようと)県からは諸葛謹や諸葛?(せい)などの諸葛一族、同じく琅邪国?(きょ)県から徐盛、下?国東成《とうせい》県から魯粛、広陵郡広陵(こうりょう)県から張絋など。呉は徐州南部を執拗に狙っており、その際に戦場とな
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