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資料 恋姫時代の後漢
資料 恋姫時代の後漢
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ういん)と呼んだ。郡の長は同名の役職。
 京兆尹には司馬八達(魏で大活躍した司馬懿など)の父親である司馬防などが就いた。
 長安県令には目立った人物はいないが、東隣の霸陵県令には名将皇甫嵩がいる。

 真ん中より西側の京兆尹、馮翊(ひょうよく)郡、扶風(ふふう)郡は三郡まとめて「三輔の地」と呼ばれ、豊かな土地として長い間西で起きた反乱の前線となった。
 京兆尹藍田(らんでん)県では、県内を流れる川から玉、銅、鉄、石が取れる。扶風郡雍(よう)県は鉄の産地。美陽(びよう)県には山上では白金、山下では鉄が取れるという岐山がある。
 後に「三輔の地」は司隸から切り離され、西側の涼州の土地の一部と共に雍(よう)州に組み込まれた。
 後年の蜀の諸葛亮による北伐はこの雍州が標的。



 幽州(ゆうしゅう) 204万人 39万6千戸 公孫賛、袁紹を経て魏の支配下に

 最北端の土地。西は現在の北京付近から、東は朝鮮半島の西側半ばまで含む。
 北西に南匈奴(みなみきょうど)、北側に烏桓(うがん)や鮮卑(せんぴ)、北東に高句麗(こうくり)や夫余(ふよ)、東に三韓(さんかん)という異民族に囲まれた土地。烏桓は烏丸とも書く。
 異民族との融和政策として、烏桓を呼び込んで漢民族との混血を進めており、中央から派遣される漢民族役人との間にもめ事が絶えなかった。

 土地は広いが寒くて農業に向かず、異民族関連で問題が絶えず、そもそも異民族からの侵攻に晒され続けているという非常に難しい立地。交通の便も悪く、人や物資の移動は困難だったため、州全体で見れば赤字となることもあり、初平元年(190年)には青州と冀州から2億銭の援助を受けたという記録が残る。

 州西部には、州都のある広陽(こうよう)郡、その北西に南匈奴との交易拠点である上谷(じょうこく)郡、その南に州内最大の人口を持つ?(たく)郡、広陽郡の東に塩鉄の生産地である漁陽(ぎょよう)郡といった主要都市が集中していた。
 州東部は、最も東の外れにあった楽浪(らくろう)郡に26万近い人々が住んでいたとされたが、それ以外の土地では10万を超える郡は一つも無かった。楽浪郡は朝鮮(ちょうせん)県(現在の平壌付近)を含む。最果ての地に異様に人口が多いのは、この地に住んでいた原住民を数えていたからではないだろうか。なお、後漢が滅びた後の話になるが、邪馬台国の使者が魏に接触したのはこの楽浪郡。

 官渡の戦い(建安5年)の7年後に曹操に平定(建安12年)されている。



 冀州(きしゅう) 593万人 90万8千戸 袁紹を経て魏の支配下

 古来より様々な歴史書で豊かな土地として扱われる。農業的にも人口的にも。
 長く戦乱で乱れたときにも、東と南と南西の州が人口を減らしたのに対し、冀州は何故か
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