資料 恋姫時代の後漢
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、苛烈な取り締まりで有名になった洛陽北部尉。これを始めとして不正・不法を取り締まる役には、若い人間を据えるのが通例だった。曹操が特別だったわけではない。
中国では量や距離を数えるときには、大阪のおばちゃん並に大げさに言うのが当たり前とされてきた。
例えば、漢書には領土の広さを指して南北1万3368里と書かれているが、これは現代の単位で6665q。赤道からロシアの中部までの距離に等しく、ユーラシア大陸の最北端からベトナム中部くらいまでの距離に等しい。事実の3倍である。
例えば、赤兎馬は一日に千里を走るとされたが、現代最高の血統馬がベストコンディションで走り続けても160qレース=約386里のタイムは13時間程度。
例えば、三国志に司馬懿が宛から上庸城まで千二百里を8日で駆けたエピソードがあるが、そもそも宛から上庸城までは少々遠回りしたとしても千里ほどしかない。
例えば、三国志演義で胡車児は500斤=111sの荷物を背負ったまま1日700里=約290qを歩くことが出来る豪傑とされたが、大人2人を担いだままフルマラソンを1日7回完走するのと変わらない。
例えば、賊軍を討伐したとき十の首を獲った場合には「百の首を獲った」と戦果を十倍にして報告するのが慣例であったため、魏の国淵が実数を報告した時にはわざわざ曹操に理由を尋ねられている。
1.命名規則と呼び名
名前は姓+名+字で構成されている。恋姫にはこれに加えて真名が存在するが、ここで紹介するルールには反している場合があるので注意。
姓。
現代の中国では基本的に同じ姓では結婚しない。当時も同じ姓の家系とは結婚を行わなかったようだ。趙雲が縁談から逃げる口実に使ったという話が残るが、この習わしが成立する以前はむしろ真逆で、一つの街が一つの姓で完結するということもしばしばあった。
後漢時代はこれらの習わしの移行期にあり、同じ姓が一つの地域に大きく固まっていることが多い。
つまりこの時代、民間ではまだ同姓との結婚の方が一般的だったのではないだろうか。
名。
諱(いみな)などと呼ばれる。普通は呼ばないし呼ぶのは失礼極まりない。というか名を呼ぶことで呪術(言霊)を掛けられると考えられていた。
家族や極めて親しい人物、お世話になっている上司や親族で目上の人物などは呼ぶこともあったらしい。この辺りは恋姫でいう真名に近い。
後漢成立前からの慣例により、大半の人物は一文字の名を持つ。父子間で同じ漢字を使うこと、同じ部首やつくりを使うことはタブー。目上・年上の親族に同名の人が居た場合などには成人に合わせて名を変えることもあった。皇帝・君主の諱も避けた。君主クラスになると自分の諱を呼ばせないために領内の同名の地名を変えることすらあった。
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