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夜なき蕎麦
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第一章

                     夜なき蕎麦
 江戸には今ある噂が漂っていた。
 それが何かというと屋台に関するものである。夜に屋台が出て来るというのだ。
「そんなものは江戸のあちこちにあるだろう?」
「だがそれが違うのだ」
 すぐにこう否定されるのだった。
「その店はな。またと特別でな」
「特別か」
「冬にしかやっていない」
 まずはこのことが述べられた。
「それも凍えるような寒い真冬にだ」
「冬の夜だと」
 皆話を聞いて思うことは一つだった。江戸の冬は寒い。風が吹いてそれがとりわけ寒くさせるのだ。それは大阪などの冬とは全く違うものである。
「それだと蕎麦が食いたくなるな。それもざるじゃなくてかけとかがな」
「それだ、蕎麦だ」 
 そしてここで蕎麦のことが言われるのだった。
「その店の看板は大きな行燈でな」
「行燈か」
「行燈にはこう書かれている」
 こう話されるのであった。
「二八手打ちそば切うどんとな」
「そう書かれているんだな」
「その店だ」
 まさにその店だと話されるのだった。
「その屋台だ」
「それでその屋台には何があるんだ?」
「さあ」
 ところがだった。このことに答えられる者は江戸の何処にもいなかった。それ以上は何も知らないのであった。誰一人として。
「何があるんだろうな」
「何がか」
「それは何なんだ?」 
 誰もが首を傾げる話だったがそれがどうしてかわかる者は一人もいなかった。しかし興味を持つ者は出るのであった。
 江戸の旗本の一人に前田正芳という者がいた。石高は五百石であり三河の頃から将軍家に仕えている古い家の主である。彼は背が高く膂力もあり武芸に秀でていた。
 剣は直心影流であり免許皆伝にまで至っていた。その他にも馬術や水練、それに柔術といったものを得意とする所謂武芸者であった。
「武士の本懐は武である」
 彼は常にこう述べていた。その気質も豪胆であり天下の何も恐れてはいなかった。その彼がこの店の話を聞いて言うのであった。
「ではわしが言って確かめてやろう」
「あなたそれは本気ですか?」
 女房のおこわが夫の話を聞いてまずはその顔を顰めさせた。この前田家に入って三年になるがくたびれることなく美しさを保っている。落ち着いたその美しさは眉も顎も太く目も威風堂々としている夫と好対照である。
「その屋台を確かめに行くなんて」
「わしは嘘なぞ言わん」
 自分の家の中で妻に対してはっきりと告げていた。畳の部屋でそれぞれ正座して向かい合いながら話しているのである。ここでも毅然としている彼だった。
「それは御前もよく知っていることではないのか?」
「知っていてもです」
 おこわは言うのだった。
「何が出て来るかわかりませんよ」
「結構な
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